たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなかから、
遺言執行人がぼんゃりと姿を現す。
-これがすべての始まりである。
・・・・・・
いつも季節は秋だった。昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
・・・・
埋葬の日は、言葉もなく
立ち会う者もなかった。
憤怒も悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信じるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
(鮎川信夫「死んだ男」第一連と第四・五連から)
連日続く19号台風・大雨被害被害地の報道画面を見ていると、昨年
今年と初めて訪ねた栃木県足利市界隈、宮城県石巻市界隈の風景と今
が重なり、かつ8年前の2011年3月11日の東日本大震災の今も
工事中の防潮堤、廃校・墓石群等の風景が重なる。
繊細で弓形の海に浮かぶ日本列島。
海に囲まれ豊かな山と森と川の島国。
その地を戦災が覆った70余年前1945年。
そしてさらにその70余年前に鎖国を解き、文明開化の旗の下近代日本
が出発したのだ。
近代化とともに新たな文化がモダニズムとして芽生えていく。
そのひとつの破綻を冒頭鮎川信夫の詩は伝えている。
地震・水害・風害といった自然災害と人災である戦争災害とは違うかも
知れない。
しかし人を取り巻く社会環境、国家・社会と、生命を取り巻く宇宙、
地球・自然環境とは人間の基本的基幹環境なのだ。
鮎川信夫の戦後直後に発表された冒頭の詩は、何故か今こそ胸に沁みい
るものがある。
原子力に象徴される<爆弾><発電>の相違が近代150年余の近代と
現代の分岐界にあって、今暗渠のように流れている気がする。
宮城県牡鹿半島の繊細な岸辺たち。
里海の美しい光と波の波長。
栃木県足利地方の遠い生垣のような優しい山たち。
里山の豊かな恵み。
この人間社会と自然世界の両方が音立てて崩れ、光と水と風を蝕む。
そんな時代の予言のように、鮎川信夫の「遺言執行人」が姿を顕すのだ。
空にむかって眼を上げ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
この<重たい靴>と<太陽も海も信ずるにたりない>の呟きの内に
国家・社会と地球・自然の傷口が、陰画のように今という時代が見
える気がする・・・。
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