最近病を得てから、「身」という事を感じ、考える。
結論から先に言うと、<ボディ>ではないという事だ。
身も心も・・というが、身は心と一対である気がする。
対峙概念ではない。
もっと身を入れろ、身の丈にあった、身空・身の上、
身に沁みる、・・・等々。
身は精神的な事と深く関わって表現される。
フィジカルーメタフィジカルではない。
国家・社会・時代といった人間社会のインフラ環境を基底的に
超えた<身>という、個を起点とする人間が在る。
その人間の身から発する行為が、大きくいって表現という
生命の為す行為なのだろう。
国家・社会・時代に添って為す行為ではなく、身の内から
湧き出す源泉・源流のような、行為なのだ。
明治・近代化とともに生まれ育った大野一雄が、西洋舞踏の
表現に憧れ志しながらも、国家・社会・時代に囲繞され、身
も心も戦場へと拉致された青春。
そこから敗戦後這い上がり、舞踏という近代を、世界に発信し
続けた、身一つ・個の近代。
慶人さんは、親との国家・社会・時代の相違に翻弄され、10歳
で初めて見た少年期から父と呼ぶ事なく103歳の大野一雄を看
取ったという。
しかし死後10年近い歳月を経て、父を模した指人形を翳し
晩年父が愛した戦後米国を代表するエルヴィス・プレスリー
の歌曲「好きにならずにいられない」をバックに追悼した
真摯な舞踏には、指という身の一部になった父への、本当に
肉親への想いだけが、そこに何の隔たりもなく手を取って踊
っていた。
この静かな、動きだけ、指先の父を見詰める子の表情だけ、
の舞踏に、身も心も凝縮し結晶したふたりの時間が生まれていた。
慶人さんの表情は、父を想う心そのものだった。
近代とは、父や母の姿を模して顕れる。
現代とは、子の姿で問われるのだ。
近代・現代を繋ぐ回路は、<身>という生命の個。
時代・社会とは、そこから創り出す広がり、展開なのだ。
斎藤周さんの前々回からの絵画表現に、ふっと同じ絵画の道
を歩む父・子の近現代を垣間見て、<身の上>話のように
語ってみたかった。
*斎藤周展「標」-9月1日(日)まで。
am12時ーpm7時:水曜28日午後3時閉廊。
テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503