かっての原生林を囲繞した植物園の森・泉。
その原生林が続く一部高層マンション化した伊藤邸一万四千
平方メートルの庭。
さらに続く泉池偕楽園緑地跡・清華亭・広大な北大構内。
この緑の運河エルムゾーン全部を歩けはしなかったようだが、
菊井さんは植物園だけでも充分に満足したようだった。
かって石狩河口を下見に大野一雄先生を案内した時も、植物園
がスタートだった。
石狩川の支流・源流のひとつ、植物園の泉池から石狩へと
考えたからだ。
この時大野先生曰く、”私はいろんな国の植物園を見てきまし
たが、こんな植物園は無いよ。初めて見ました・・・。”と独言
のように呟いていたのを忘れない。
図らずも菊井さんも、ここから石狩へと向かった。
石狩河口近くの草叢に沈んでいた廃バス、巨大な流木、望来の
崖下の砂山等で、心から解放されている少年のような様子を後
で写真で見る事ができた。
炭坑の閉山とともに捨てられようとしていた「北上坑」の看板。
その一枚の看板が機縁となって、夕張の山奥の都市から、東北の
石巻・北上川河口へと世界が開く。
近代日本を支えた黒いダイアモンド・石炭の近代は、宮城県北上
河口の3・11以降の現代へと姿を顕わしたのだ。
近代のエネルギー産業を底辺で支え続けた炭坑夫さん、女坑夫
さんの犠牲の記憶が、坑内火災・爆発等から人を守り、犠牲者の
鎮魂の為に日本の代表的大河の名を九つの坑道につけたという。
山奥の火災・爆発の火の災難から、河口の地震・大津波の水の災難へ。
水力・石炭の坑口から石油・原子力の現代エネルギーの河口へと、
女坑夫さんは同時代の坑道を掘りつつ、今も川の流れのように歩ん
でいるのだろうか。
たった一枚の今は見捨てられた廃坑坑口の木板。
そこに記載された女坑夫と北上坑の二文字が、近代から現代への
架橋・界(さかい)の坑道を開いている。
*追悼・大野一雄の戦後「プレスリーに触れて」ー6月18日(火)
~30日(日)月曜定休:水・金ー午後3時閉廊
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503
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