美瑛から来た白い花々。
床一面がお花畑。
その中に、ふっと夕張北上坑の看板を小さな椅子を背に
置いてみた。
看板が活き返るように花の中に浮かんでいる。
女坑夫さんのヴァージンロード。
故郷の東北を遠く望みながら、花々の風に抱かれている。
こんな偶然などそうそうあるものではない・・・。
夕刻訪れた大学出版事業の指導をしている竹中英俊氏と
k氏は声を上げ感嘆している。
来週以降予定していた大野一雄追悼展を後ろに伸ばし、
北上坑の看板を主体に展示を続けたい、と思う。
1991年9月15日夕刻の石狩河口来札浜で夕日の中
心沁みる鮭の生と死、大野一雄の憧れ舞踏のアルへンチーナ
の亡霊、あの世の舞踏を見せてくれた大野一雄・慶人さん。
この舞台に立ち会い、翌年ブラジルへ客員教授として招か
れた吉増剛造は、1994年春ブラジルから傷心の帰国を
する。そして大野一雄の石狩河口近くに滞在し、夕張川を
遡上し名作「石狩シーツ」を著した。
この長編詩の最終章を飾るのが、夕張で出会ったこの看板
記載の「女坑夫の名も数多く刻まれています。」という
炭鉱犠牲者追悼の一文だ。
この一節に触発され<女坑夫さん>連呼の最終詩行が
生まれる。
吉増さんの故郷、奥多摩地方の古道・絹の道。
そこに絹を織った織姫の存在がある。
日本近代明治初期、この時期唯一といってもよい輸出品・絹
の生産を支えた女性たち。
その近代底辺・原点への回路を、石炭産業という近代の底辺・
原点に現われた<女坑夫>という記述に吉増さんは感動した
と思う。
<女坑夫>とは、吉増さんの頭脳の中では<織姫>と重なる
近代の女神・その象徴的存在なのだ。
大野一雄の舞踏を通して欧米への憧れと親和という近代の根を
知り、ブラジル滞在で地球の裏側にひっそりと蓄えられていた
日本、異国で純粋培養された遠い日本と出会い、戦後を起点と
する米国文化風土に育った自分に深い亀裂を感じたと思える。
そんな精神の流れ。
そして戦後近代の瓦解のような原発事故を含む2011年3月
11日を経て、吉本隆明という戦後文化の巨樹の根に触れ、3
・11の傷跡残る北上河口へと今夏向かいつつある。
日本近代をそれぞれの足元から見詰め直す事は、ひとり吉増
剛造だけの問題ではない。
私達個々が今さまざまな分野・領域で問われるべき現在だ。
場を失われた北上坑の看板は、その問われるべき現在の象徴
として北上河口ー織姫の近代、石狩河口ー女坑夫の近代への
扉口と見える。
*「北上坑ー女坑夫ー河口」展ー5月28日ー6月9日
*大野一雄追悼「プレスリーの戦後」-6月18日―30日
テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503
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