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テンポラリー通信

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2006年 08月 11日

生きる条件そして足ー界を生きる(42)

熊谷透さんの初の気功講習があった。踵を上げゆらゆらと上半身を揺らす動作に
始まる無理の無い動きに静かに心と体が寛いでいくのが分る。この律動に及川恒
平の復帰第1作「緑の蝉」のリズムを感じたのは今年の2月だったかしら。唄には
唄の条件がある。身体にも身体の条件がある。ましてトータルで生きていく為には
生きていく条件がある。人は様々な条件をクリアーしつつ生きていく。電気、ガス
水道、電話これら公共的なライフラインという条件。飲み食いという身体に関る条
件。住むということも含めた衣食住に関るそれら社会的生存の条件。そしてなお
かつ精神世界の時代との関りから生まれる時代的生存の条件。それらの生存の
条件の裏側にピタリと貼り付いているのは死という無の存在だ。社会的死、時代
的死、身体的死。気功を体験しながらその呼気吸気の間に身体と外の世界と関る
つながり、手応えのようなものが断絶している世界も同時に感じるのだ。内に篭も
って小さく死んでいたものがふと顔を上げ外を見る。身体も日常的に小さな生と死
の狭間にある。社会的存在の人間は同様に社会的生存の生と死の狭間にもいる。
今病床に伏すある表現者の’80年代もまた2000年代の現在一時は時代の死に
いたのかもしれない。生と死の狭間その峡谷を、身体も社会的存在も時代も生き
ている。そして、時に心指さす旗竿に重さを感じると何気なくやり過ごしている事が
重くなる時もある。
そんな昼過ぎ画家の白鳥信之さんが来る。先日の個展の会場写真を見せにきて
くれた。残念ながら見れなかったが好評と聞いていた。力みが消えている。素材の
周りの空気も柔らかだった。風景もりんごも呼吸しているなあと思った。彼も絵の
気功を覚えたのかしら。白鳥さん帰ってすぐ足を編んで包むフアイバーアートの
作家田村陽子さんが来る。人が一番外と直接触れている身体それが足だ。そして
そこを被う。それが最初の文明的行為だったのかもしれない。その分岐点のような
足をもう一度手で包んで編む。その行為に彼女が無意識の内に対峙している表現
の意思のようなものを感じるのだ。素材の足を素足に戻しそして包む、編む。靴や
靴下で囲われた足を解放し素を包む。人が二歩足になって立つ。地にいつも触れ
るその身体をもう一度素で触れる形のままにして、入れるのでなく包む。不思議な
行為だ。包む行為によって世界がより本質的に姿を顕す事がある。有名なクリスト
の梱包アート、霧や雪の覆った樹、家屋、街。身体の一番外界と触れる所。足。
車、エレベーター、靴と、足は過保護になり直接触れなくなっているからもう一度
包むからやり直す。足から現代を問いかける最も直截な行為かもしれないね、
田村さんの表現行為は。

by kakiten | 2006-08-11 12:51 | Comments(0)


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