歌人福島泰樹が主宰する歌誌「月光」が届いた。
今年2月15日逝去した賀村順治の追悼号である。
このブログにも記載した一文に手を加え、私も追悼の
文を寄せている。
生涯彼が求めていた祖国(くに)とは何か、を主題に
書いた積りである。
死後気になっていた一首
俺は帰れ胸の奥処の泥の温みその肉声の端緒の祖国へ
この歌の<泥の温み>という言葉がキーワードだった。
屯田兵の末裔として佐賀県から移住し、新琴似で生まれた
賀村順治がアイヌと大自然の北海道の大地に深く拘って、
自らが生まれ育った新琴似の地を発見し、祖国(くに)と
呼んだ心の在り処、それが<泥の温み>という言葉だった
と私は思ったのだ。
バブル後見捨てられた新篠津湿原に、高層湿原特有の草花
が僅かに遺されていた。
地層が泥炭地であり、その特有の地質が高層湿原の草花を
育てていたと知る。
新琴似とは正しく近代まで泥炭地であり、寒さを防ぐ為
泥炭を掘り返し、あちこちに雨水の溜まった穴が池となっ
てあったと、私は賀村氏自身から聞いていた。
これは石狩湿原とかって呼ばれた広大な湿原地帯が広がっ
ていた150年前までの自然の風景だったのだ。
彼の死後知った新篠津ツルコケモモを守る会の冒頭文。
「その昔、新篠津村を含む石狩平野には、総面積約6万
ヘクタール以上、北海道最大の湿原が広がっていました。
釧路湿原と比べて石狩湿原は高層湿原が多い特徴があり、
かっては現在の雨竜沼や尾瀬ヶ原に近い景観を呈していた
と思われます。」
尾瀬や雨竜沼のように高山にない高層湿原とは、偏に泥炭
地という地質が招いた環境だったのだ。
その新琴似特有の地に何時からか、賀村順治は父祖の出身地
にない固有性を愛着を保って、<胸の奥処の泥の温み>と
呼び、自らの<その肉声の端緒の祖国(くに)>と呼んだ。
その意味では、彼はこの時初めて自らの手で札幌の土を踏み
しめ、掴んだのである。
札幌都心では大手代理店の社長として働き、屯田兵の末裔の
生まれとして見知らぬ父祖の遠い地を臨み、自分が産まれ
た新琴似の天地を見つめ続けた。
<泥の温み>とは、彼自身が<帰れ>と発見した固有の地・
故里の<温み>だったのではないか。
戦場へ
行く早鐘のランナーの
背中に涙あふれていたり
この一首と併せて書いた私の追悼文は、札幌大手支店街で働き
札幌都市構造の渦中に生きた男の背中の涙に、少しは労わり、
報いる事ができただろうか。
幻の石狩大湿原の話を、賀村順治と話したかった。
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am11時ーpm6時:11日午後5時まで
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テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503
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