ひとりの表現者にとって節目ともなる展示が
最終日を迎える。
様々な世代の人たちが本当に切れ目なく訪れ
様々な感慨を保って帰って行く。
先ずはこの空間の吹抜けの非日常性に驚き、
そして身体感覚が言葉を越えて、何故か納得し
並べられた絵画作品と交響し、感応を抱いて
帰路に着く人が多い気がした。
課外授業の一環として大挙訪れたH高校現役の
若い世代の人たち、斉藤周さんの父上と同じ世代
の人たち、共に世代に関わらず今回展示の作品と
会場構造に驚き、納得しつつ帰ったように思えた
のだった。
私たちの日常は何時の間にか、尺・寸・坪、合
・升の身体・風土基準から産まれた人間尺度を
沈ませ、一坪は3・3平方m、一升は1・8Lと
ここの6畳間の床と同様、頭を吹き抜けにした
日常を生きている。
押し入れも床の間も構造を残したまま畳の床が消え、
吹抜けとなった空間に非日常を感じながらも、時間
とともに体に埋もれていた身体感覚が応答しだし、
ゆっくり寛いだりしていたのだ。
MとLの日常の底に、尺・寸、合・升の畳間、一升瓶
のような日常が横たわっている見えなくなった日常を
身体が直観しているからだ。
戦後コカ・コーラ世代以降の若い世代の人たちすら、
身体の奥のDNAが甦り、吹き抜けに足を投げ出し
寛いでいた。
斉藤周さんがメインとして今回描いた父上がアトリエ
兼住宅として建てた2階建ての木造住宅百号の油彩。
今は無いその家への想いが、この古民家構造の吹抜け
画廊空間と交響し、現在という日常を撃っている。
ニセコの山、もう一つの斉藤さんの父上の記憶・父の背
中を思わす絵画が、共に宙を舞い家を抱き交響している。
この会場空間は、どこかで訪れる人たちの心の奥の扉を
敲き、小さな記憶の底の扉を開いていたと思う。
小さな故郷・ランドを、今回斉藤周は自分の国・領土と
して作品に顕在化したと思う。
自らの小さな文化(カルチャー=耕土)をランドとして
踏み占め、一本の若木のように斉藤周の作品世界は開い
てゆくだろう。
見えない父の背中の空を、ノックするように・・・。
*斎藤周展「継ぎ」-8月26日(日)午後7時まで。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503
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