大阪北部震災にあった橘内光則・なつさんから便りがある。
なつさんのご実家は箕面市で、震源地に近い。
ガスも通らず、室内は散乱して大変だ、という。
一枚の写真が添えられていた。
本棚から本が散乱して、額が転がっている。
夫君の橘内光則さんの作品だろうか、<ちっぽけで弱弱し
いただの板>にしか見えない、と文中にあった。
ふたりの現在の住まいは茨木市である。
自宅の写真と思う。
時として私たちは、報道される大規模な被害状況に驚く。
しかし震源地に近いこの写真とコメントに、より身近に
私は心撃たれるものを感じた。
<弱弱しいただの板>ーそれはきっと夫君橘内光則の
作品なのだろうと思う。
最近は天災による人災のような場面を見ている事が多い。
フクシマの津波による原発事故。
そこから放出された放射能汚染地域の一見変わらぬ風景。
視覚的には大規模な破壊が見える訳ではない。
しかし破壊の見えぬ建物・道路・林・小川には、人間が
生活不能な見えない汚染物質が潜んでいる。
変わらず茂る草木、変わらず立ち尽くす商店・住宅。
まるで舞台の書割りの背景のように、ただ立ち尽くす。
<弱弱しいただの板>と化した大事な書斎の絵画が、何故か
その時フクシマの風景と重なっていたのだ。
社会の基層にある人の日常。
その深度まで最近の被災は、達している。
非日常が日常の領域にまで浸食してきている気がする。
きっと社会の構造が、天災を日常ごと根こそぎ呑み込む
受け方になってきているのだ。
何故なら大量生産・大量消費・大量破棄の一局集中の
都市構造は、日常の個の一点よりも日常の多数性の一点に
吸引される構造だからだ。
その結果個の一点は弱弱しいただの一点、ただの物になる。
自然台風の巨大な眼の一点は、多くの小さな個の一点を
薙ぎ倒し去ってゆく。
しかしそこに人災の社会構造が重なれば被災はさらに個の
深度まで及んでくる。
膨大な見える破壊現場、そして見えない個の心の破損現場。
最近キッツ&ナッツ名で送られて来るメールを見ながら、
なつさんの<ちっぽけで弱弱しいただの板>という倒れ
た書棚・落ちた額絵の写真を見ていたのだ。
*八木保次ガッシュ展ー7月8日まで。
am12時ーpm7時:月曜定休(水・金は都合により
午後3時までです。)
*チQ作品展ー7月10日(火)-15日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503
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