とうとう今日搬出。村岸さんの白樺、どなたかが欲しいと言っているそう。その場所
に合わせてまた立ちつづけてほしいと思っている。復元はできないがその木の心
を再生する事は出来る。人の心の作用として。そんな不可能を可能にするかのよう
な六番目の身体、幻想の物体が人の五感を刺激し解放してくれる。日々の現象に
潜んでいる本質のコアへと触れさせてくれる。個々の感受性が様々な虹を架けて
くれた。人それぞれが鏡のように光を反射する。その光の中に作品が存在した。
只の倒木の幹がある本質的な存在となるのはその光が在るからだ。作品にとっ
てその光を発する万華鏡のような装置、函、それがギヤラリーという空間である。
箱ではない。集まり、溢れる函なのだ。大函、小函と川の水の集まり溜まり溢れる
その函だ。閉じてはいけない。exhibitionのEXは外へ前にであってINではない。
私が出来る事はその函にひとつひとつ立ち会うこと、そのことだ。一回一回がかけ
換えの無い時間である。テンポラリーと名づけたのはそういう意味である。歩行の
ように一歩一歩である。急に頂上に至るのではない。下りもある。急に海に出るの
ではない。谷もある、平野もある。トータルでコンという頂きを保つ。トータルでコン
という海を保つ。contemporaryは結果なのだ。無目的な恣意的なtemporaryで
はなく根には時代がある。それぞれのtemporaryがあってそれぞれの時代があ
る。その時間を函が共有する。そこに同時代がある。同じ時代を生きる。その本質
の時間を絶やしてはいけないのだ。少し独白的になった。搬出前のふっと感傷かも
ね。次回は1980年代を駆け抜けたある作家の近作展を是非実現したい。