背の高い岡田綾子さんが来る。彼女は教育大の学生で村岸さんとここのペンキ
塗りを手伝ってくれた健康な女性である。今回の作品を見て第一声が「なにか白
樺が可哀想!」だった。吊られていろいろな物付けられて、倒れたままにしておけ
ばいいのに、という感想だった。そうかあ、岡田さんは素直で優しいのだなと思っ
た。なんらかの原因で倒れた木がそのまま朽ちていくのは自然であり、その自然
に逆らって人は余計な事をしているのかも知れない。しかしもし木を切りそれが何
んらかの道具に加工した物だったら同じように”可哀想!”と彼女は言うだろうか。
素材その物が形を残して提示されているから、その現実のもつ一種生々しさに反
応しているからと思う。食材となる鳥や魚や獣の事を考えればもっと分りやすい。
西洋の婦人が初めて焼き鳥を見て何と可哀想、残酷なと言った事を思い出す。し
かしその本人は牛を食べ豚を平気で食べているのである。愛しさの方から見る視
線と痛々しさの方から見る視線その両方の狭間に私たちはきっと生きているのだ。
そしてその両方ともが真実なのだろうと思う。昨日の看護師さんの感想は現実に
患者さんという生死の境を日常見ている人の視線であり、岡田さんの正直なしかし
健康な日常の視線とは1本の木そのものを巡っても評価が分かれるのである。
翻って根もなく梢もなく針金で吊られている一本の木の存在とはその痛々しさに
措いてあるがままのもうひとつの現実であり、その愛しさも含めて私たちの生の
現実であると思える。今日この時間にも世界中でマンシヨンにダムに大豆の畑に
樹が切られ倒れている筈だ。その無自覚な事実の累積に鈍知である日常に、痛
々しさと愛しさの軸が入った時それは鈍知な現実を一歩超え私たちを取巻く世界
が一歩深まって顕われる事ではないだろうか。私には村岸さんの展示した白樺が
その痛々しさと愛しさの界に立ってさらにその事にすら鈍知の現在に対峙している
と思える。
*28日(金)まで村岸宏昭展「木は水を運んでいる」AM11時-PM7時
最終日午後7時から村岸宏昭ギターコンサート