村岸宏昭さんが大きな網元の末裔である事をご親戚の方が来て初めて知った。
大きな袱紗を持参されその真ん中に家紋が染め抜かれている。百年以上も前の
物という。お祝いを包む時に使うそうで少しも古びていない凛としたものだった。そ
の袱紗に包まれた心こもる数々の贈り物を戴き村岸さんは幸福そうだった。そうい
えば円山川の源流から倒木の樹を切り、自転車でここまで運び込んだ力技は漁師
の血筋なのかも知れない。大きな太巻き寿司の差し入れを私たちふたりにしてくれ
その親戚の伯母様が帰られた後次々と人が来た。午後の光が燦々と煌くように会
場を包み二階吹き抜けの窓辺のベンチに人が座って笑い寛いでいた。鳥のようだ。
そしてそれは夜遅くまで続いた。白樺の幹に耳を当て今日は何度白樺は人に抱か
れた事だろう。触り、聞く、そして見る。空間自体が一日の光の変化と共に1本の
白樺の森の庭のようにある。幹を抱いて川の音に耳澄ませるその行為が作品と
観客の境を外してくれる。そして人は自由に空間を動き回り感性を開いてゆく。
根のない、梢のない樹の周りで人はいろんな事を感受している。生きている事の
どこか根源的な時間を知らず知らずに体験している。そんな気がするのだ。耳を澄
ます、木肌に触れる、倒木の在った場所の地図を見る。その地図も実はスピーカー
になっていてその森の鳥の声が響いている。見るだけではない。耳も澄ます。その
時この小さな空間は森の庭になり、森の樹の感覚が再生される。村岸さんの音へ
の感覚が音楽演奏とはまた違った形で今この作品には生きているのだ。展覧会を
見た看護師さんから1通のメールが届いた。
<先日は私も白樺の木のそばに立って、触れましたが、(中略)「見て触れて聴く
事」、いつも私が私なりに方法で、人に対してしていることを、白樺さんに対しても
、すっとできました。白樺もひとつの命として生きているということ、同じような、感覚
になりました。>
普段仕事の上で日常的に生と死に向き合っている人の飾らない真っ直ぐな感想が
村岸さんの今回の作品に対するなによりの言葉かと思う。