札幌国際芸術祭に吉増剛造さんが参加する事で、こちら
にも色々な余波・波及がある。
2011年から毎年連続した「怪物君」の流れがあるので、
当然といえば当然なのだが、私自身はずっと国際芸術祭に
は距離を置いて来た。
新幹線・オリンピックと並ぶ都市一極集中化の流れと位置
付けていたからだ。
札幌は北海道の東京にならなくても良い。
東京化という近代化とは、一線を画すべきと思うからだ。
しかし吉増剛造となると、彼の今邁進している仕事は、その
近代の裾野を抉る五臓六腑ならぬ剛造六腑の脳内臓腑消化・
吸収・咀嚼開示の全身行為で、その真摯な表現に嘘はない。
3・11以降「石狩河口・坐ル ふたたび」で始まったここ
での展開は、明治開国と昭和の敗戦のふたつの日本の近代化
の裾野を問い、立ち上げる全身全霊のラディカルな仕事だ。
六番目の臓器・脳の、知の咀嚼・分析・吸収を、自らのカメ
ラで生々しくドキュメントのように記録し提示する全身・全
霊の実践記録。
それは正に知覚による心の食物を、脳の唾液・胃液・腸液が
咀嚼・分解・吸収する詩人の格闘現場に立ち会う稀有で露わな
内臓言語の磁場宇宙であるからだ。
吉本隆明の最初期詩集1950ー51年「日時計篇」を、戦後
近代の原点素材として詩人は全身全霊の咀嚼・吸収を実践して
、今という時代を噛み砕こうとしている。
この非常にラディカルな行為の記録は、立ち会う事にこそ意味
がある。
描かれた草稿は身体の食材のように、残骸化し晒される。
吉増剛造は1994年「石狩河口/坐ル」展で、明治以降の近
代化の原点と向き合い、2011年3・11以降戦後昭和近代
とふたたび向き合い、対峙している。
それは自らの、産まれ生きて来た時代そのものを裾野から問い
立ち上げる孤独で直向な個の公開行為なのだ。
私はただただ立ち会うしかない。
そこには国際も芸術祭もない。
あるのは札幌という近代を生きてきた自分自身の現実の総体・
すべてである。
この間札幌響文社より出版された「根源乃手」に続き、同
出版社より続編ともいえる「火乃刺繍」が今秋出版される。
出版不可能と思われたこの数年の一連のここでの仕事が、見事
な造本・製本により2冊の書物となる。
そして札幌国際芸術祭での展示は北大総合博物館で来週にも
展示が始まる。
タイトルは「火ノ刺繍ー石狩シーツの先へ」。
大きな円環を見せるように、「石狩河口・坐ル」展で生まれた
長編詩「石狩シーツ」の彼岸を見据えている姿が見える。
大きな螺旋構造を感じる。
全身詩人の、喉の奥の螺旋だろうな・・・。
*5人展「脈」-7月25日(火)-30日(日)
am12時ーpm8時
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503
との格闘現場