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2017年 07月 01日

三人の気合いー泉=メム(16)

三人展「なんのためにあるのか」。
このタイトルの通り、展覧会をするという三人の
気合いが凄い。
展示物は百余年前という古い着物や日常見捨てられた様々な
道具、部品、そして路傍や岸辺の石や貝殻が主体だが、この
三人には展覧会が同時に自己の<なんのためにあるのか>と
いう生の行動体として位置している気がする。
仕事の合間を繋いで会場に立ち、訪れる人とそれぞれの作品
を通して語り合う姿は、真剣、かつ楽しそうだ。
日常の合間に培い築き上げてきた表現体。
時代に見捨てられたものに託した己の存在の証(あかし)。
そこを拠点に、純粋な生の命を紡いでいる。
そのテンションの高さ故か、ひとりがダウンする。
展示に託する力より、自らが参加し感じる力の方が勝っていた
結果とも思える。
今展示の場合、日常と深い関係のある物たちが主役である。
その分見る人も素(ス)で多くの反応を見せるのだ。
例えばその内のひとりCadbunnyさんこと、桑原菜穂さん
の場合、百余年前の古着物が展示の主役である。
この古着物そのものが保つ用を喪った後もなお語りかける感動が
展示のキーともなっている。
従って作家は、訪れる他者とともにこの古衣装を通して、対話を
続ける事ができるのだ。
素の刃が素の自分に直接刺さることは少ない。
元々作品という物はそういうものである。
人は素で生きてはいけない。
純粋な魂は作品という容れ物に封印されてこそ純粋に
息付く。

その作品へ入魂する回路が不十分だと、人は素と素で
向き合い著しく消耗する場合がある。
三人のひとりは、そのダメージを受けたのだ。
人は色んな容れ物の中で生きている。
心は肉体を纏い、身体は衣を纏い、人は社会を纏う。
素の心は、芸術・文化という容れ物を得て、その内に
こそ呼吸する。
作品は、魂が着こなしてこそ価値がある。
その境界を逸脱すると、素の魂は傷つきボロボロになる
瞬間もあるのだ。

展示の場もまた、ひとつの衣でもあるだろう。
そこに素の魂は、作品を媒介とせず素となり傷つき臥した
と思える。
心の衣を着直して、また立ち上がって下さい・・・ね。
Iさん・・。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日(日)まで。
 :本日予定の「街歩きワークショップ」は都合により中止致します。
  
 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2017-07-01 13:34 | Comments(0)


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