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2017年 06月 17日

晴れ間ー泉=メム(11)

今週は蔦井美枝子ー着尺展「纏う」、斉藤周展「片鱗」
そして3日後の田野崎文ライブ「歌・光・花」予告と
ジャンルは違うが心に沁みる出来事が続いた。
10年間ここで培ってきた人間尺度の多様性が、表現の
ジャンルを超えた多様性として、超人間的尺度先導の現代
社会と対峙し確実に芽吹いていると感じる。
<纏う>という身体で感じる織物の美。
<片鱗>という作者の記憶に触れる絵画。
故郷(ふるさと)という風景に立つ、声の身体。
個々の表現者の身体から発する多様性として、独自の表現
があり、そこにショートカットされた超人間的尺度はない。

10年の時を経て、建物は今蔦葉を毬藻のように纏っている。
冬の寒さと無人の冷えた時間が蔦の成長を阻害し、その後人
の居る暖気がこの緑の衣を生き返らせたのだろう。
家もまた、固有に<纏う>のだ。
ショートカットの量利追求の多重パック住居建築が立ち並ぶ
中、春夏、緑の蔦が茂り、秋、緋の衣となり、冬は白い衣に
氷柱の睫毛の古民家は、一軒という存在感を保っている。
強力エンジンの為のアスファルト道路。
排水の為の直線化された河川。
そうしたショートカットされた風景の中で人間もまたショー
トカットされた価値観の中に生きているのかも知れない。

個から発して、個に繋がる。
その波及の磁場・地場。
対峙するのは、量利という超人間尺度の世界。
私がこの一週間心沁みて感じていたのは、纏うという織る
行為の身体性、父の記憶という身体から湧いた表現、そして
唄うという声が欲した原点と思う風景の身体性。
家も町も風景も人と同じように固有の身体を保っている。
その固有の多様性の彼方に、<CON>という共有・共感の
<ともに・・・>がある。
人も家も町も社会も時代も、本来そうして個を超える。
人も家も町も社会も時代も、ある特定の目的の速度とか量数
とかの為に、膨大な強力エネルギーを駆使する結果優先が、
<超える>全てではない。

文化・芸術の地場・磁場を耕土のように保つ事。
そんな勇気を貰い、今日の晴れ間のように感じていた。

*3人展「なんのためにあるのか」ー6月23日(金)ー7月2日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。
*田野崎文ライブ「巡り手ー歌・光・花」ー6月20日(火)午後7時~
 入場料2000円
 :唄 田野崎文・ガラス 高臣大介・花 村上仁美
*及川恒平×古館賢治ライブー7月中旬予定。
*5人展ー7月25日ー30日

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2017-06-17 18:08 | Comments(0)


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