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テンポラリー通信

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2017年 05月 26日

心寄る日ーメム=泉(2)

ふっと魂集まるような日だった。
福島県浪江で復興の仕事をしている東京の出版社の
H氏が来る。
浪江の出身という。
吉増さんとも親しく、茅ケ崎のT氏に此処への訪問
を強く勧めた人でもある。
本人は来る予定は立たなかったが、T氏からの話を
聞いてたまらず訪れたようだ。
この日吉増さんからも電話あり、明日オランダへ
発つけれどH氏が訪問するからよろしくという伝言
も添えられていた。
奥の談話室へ招じ、これまでの吉増展への流れなど
を説明する。
そして現在の吉増さんのふたつの近代を軸点とする
石狩河口/坐ルー「石狩シーツ」1994年
石狩河口/坐ル ふたたびー「怪物君」2012年~
そこには1992年から94年のブラジル体験と
2011年3・11の経験が大きく在る事を話した。
何故H氏が吉増さんに惹かれているのか、その真の
部分が話している内に心の底から深く湧き上がって
きたのか、話の後半にはもう涙目そして号泣するよ
うに机に俯せ涙が止まらなくなっていた。
心撃たれる男の涙を久しぶりに見た。
福島県浪江出身でありながら、震災以降復興の仕事
をしていて感じた被災当事者との心の谷間。
その経験はきっと吉増さんがブラジル日系社会で感
じとった故国日本の落差と同質の苦悩ですよ、と私
が語った事がきっかけだった。
何故吉増さんに惹かれ、時に救われた気がするのか、
その疑問が同じ経験という言葉で深くなにかが弾け
色んな想いが一気に込み上げてきたのだと思う。
1994年ブラジル滞在を切り上げ、詩を止めよう
とまで思い込んでいた吉増剛造。
そこからの復活に「石狩シーツ」の誕生があぅた。
そして3・11以降のふたたびの復活。
そこで出会ったH氏は吉増さんの深い心の亀裂体験
をどこかで救いのように感受していたのだと思う。
その理由が自分自身の震災・原発を経た福島体験と
呼応し響きあっている事にはたっと得心したのだ。
地球の反対側まで遠く離れた移住者の故国への想い。
立ち入り禁止が続く難民の故郷への想い。
その当事者の深く重い心の位置は、同じ故国、同じ
故郷といえども同じ位相にはない落差がある。
H氏が経験しつつあるその故郷の落差は、1990
年代前半吉増さんが経験したであろうブラジル日系
社会人が保っていた故国でもあったと私は思う。

 震災後初めて吉増さんに会った時、ただただ黙っ
 て傍にいてくれました。それが凄く嬉しかった・・。

 復興のイヴェントで浪江で集会を開き、吉増さんの
 公演で当初は声が聞き取れなく800人ほどの
 聴衆たちが白け気味の後、吉増さんが浪江のある
 地名を大きく絶叫した瞬間会場の空気は一変しま
 した。前列にいた高齢者たちは涙を流していました。

 「怪物君」の草稿を初めて見せられた時、原稿を
 大事にしてほしいなあ、と感じながらふっとそこに
 見た<包む>という一字に何故か深く心撃たれまし
 た・・・。

 福島浪江復興の仕事をしながら、被災者と話すと
 なにか拒絶のような谷間を感じるのです。
 同じ故郷の出身なのに・・・。

同じ故郷・故国であっても心の想いの傷の深さには
ある落差がある。
それは経験・体験というものの形(かたち)の同一さ
ではない、もうひとつの容(かたち)。
内側の深度が在るからだ。
吉増さんのブラジル日系社会で感じた故国日本。
H氏が震災後に感じた故郷。
その落差を吉増剛造は闘いながら自分を追い詰め
克服してきた<・・坐ル><・・・坐ル ふたたび>
が在る。
H氏が惹かれ安らいだ吉増剛造は、その容(かたち)
経験の同質性なのだ。
そう感じた時溢れたのは、ただただ涙だった・・・
と思う。

その前余位さんの後輩Aさんも来て魂の話を零して
帰った。
一日魂が寄り添うような日だった。

*吉増剛造展「火の刺繍乃ル=道」-5月28日まで。
 am11時ーpm7時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503 

by kakiten | 2017-05-26 14:26 | Comments(0)


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