薩川益明先生の訃報を聞いてから、窓辺の側壁に先生と
保次さんの談笑の写真3葉をそっと飾った。
届いた訃報の葉書とともに。
雑然とした保次さんのアトリエ。
そこでふたりが、膝を叩き身を乗り出すようにして談笑
している。
ふたりの風貌が甦る。
ダンデイーだ。
ススキノに近い中島公園界隈で生まれ育ち、ひとりは
抽象画家となり、ひとりは化学を専攻し教師となった。
ススキノ風俗とはまた違う知的モダーンな近代の分野
である。
その所為かどちらもダンデイーで格好良かった。
先生は俳優のチャールトンヘストンのように鋭い風貌で
保次さんはスラリとした容姿でフランスパンを片手にし
、それが嫌味無く似合う人だった。
そういえば、同じススキノ生まれの三岸好太郎もダンデー
で、かつ私の母校の早稲田大学名誉教授だった郡司正勝
先生も粋(イキ)な人だった。
ススキノにはそうしたパリのモンマルトルのような遊興
街でありながら、芸術家の系譜があるような気がする。
薩川先生の書く詩も当時高校生だった私にはキラキラと
眩しかった。
化学の教師である先生の語彙は、文科系の当時の詩の
語彙と異なり鋭角的で乾いていて新鮮であった。
先生の風貌と重なり、遠く畏敬の念を保って高校時代
は接していた気がする。
後年長万部に移られた先生と一緒に札幌を歩き廻るよう
になり、町の牛乳屋さんの息子さんと知ってから、その
畏敬の距離は縮まり、同じ札幌っ子として旧き札幌の道
を探索したのだ。
そして今思う。
私の生まれ育った札幌とは違う札幌の土壌を見ていた気
がするのだ。
距離は近いけれどモダニズムの見る先が、より自由で粋
(イキ)で個性的だったと思える。
そして晩年は自分を育てた札幌の風土を心より愛していた
という事だ。
郡司先生も晩年は円山の神社山近くで暮らされ、八木保次
さんは宮の森の奥三角山麓で暮らしていた。
薩川先生は長万部から出てきて、私と札幌・石狩を歩き廻
った時間はとても楽しそうで、それは札幌への愛と思う。
寺町・神社の祈りと遊興の自由が併存するススキノ・中島
公園という風土。
そこから生まれた3人のモダニズムは、化学と現代詩、抽象
絵画、歌舞伎・演劇へと向かっていたのだ。
晩年札幌を離れ、長万部・金沢で過ごされた薩川先生は、き
っと月一回の札幌探訪歩きを楽しみ、嬉しく思い出していた
に違いない。
2年以上金沢で闘病生活を送られた先生に、保次さんとの談笑
の写真を捧げて、サッポロモダーンボーイに心より愛悼の意を
捧げます。
合掌。
*「彩」八木保次・伸子展ー4月11日(火)ー23日(日)
am11時ーpm7時:月曜定休・なお都合により水・金は
午後3時まで。
*吉増剛造展「火ノ刺繍乃道(ルー)」ー5月初旬予定。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503