信州の山間に生まれたふたりの作家に聞いた事がある。
ひとりはあの日の昇る山の向こうに憧れていた。
もうひとりはあの日の沈む山の向こうに行く事を夢見ていた。
谷を隔て直線にすれば僅かな距離だが、二人の眼差しの
方向は正反対だった。
山間だけではなく。平らな街でも同じような事がある。
僅か数百メートの街の隔たりでも原風景となる街の
ランドマークが違う。
私にとって物心付いた時の路面電車、さらには小学校の
近くにある公園・洋館・時計台が街の原風景だった。
そこから僅か数百メートルの商店街に育ったS君にとって
は、近くに拡がる歓楽街ススキノ街が原風景だと聞く。
人にも源流の一滴のような人生の始まりがある。
信州生まれのふたりが見た朝陽・夕陽に分かれた夢の方向
にあったのは大きな都の存在だ。
この原風景の一滴経験がその後の人生領域の根として活動
半径の色合いを支配している気がする。
どんな大河にも源流の一滴がある。
それら小さな支流が合流を繰り返し、大きな流れを生む。
人間もまた個々の源流の一滴の原風景から、同時代という
潮流を創っていく。
そして時に時代の早瀬に押し流され自分自身を見失いそうに
なった時、原風景のあの源流の一滴を思い起こし追求し、再
構成する。
誰の為でもない。
自分自身のアイデンテイテイーの為だ。
個は源流の一滴を再構成する可能性を常に保っている。
またその真摯な個的誠実さを保たねばならぬ。
個的源流の一滴を同じ色に染め上げる愚を犯してはならぬ。
時として社会は大きな流れを同じ流れの一滴の集合体に
染め上げようとする。
オリンピックや新幹線、国際芸術祭等の場合もそれがある。
ショップやビル群に見られる街風景も同じである。
街も風景も個の源流が消えている。
違う事が差別・分別となり、多様多彩とならず只の集合体・
烏合の衆の、量的価値観に支配されてくる。
素材から生まれる料(りょう)でなく、物量の量(りょう)
からだけでは、美味は生まれない。
<料の理>ではなく、<量の利>を勝ち誇る世の中だ。
*高臣大介ガラス展「奏であう」ー2月近日決定。
*中嶋幸治作品展ー2月予定。
*吉増剛造展「火ノ刺繍乃道(ルー)」ー4月予定。
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