<前から見たいと思っていた。行きます、>
即日パリから返事が来た。
吉増さんはじめ関係者2,3の人にも即連絡した。
川俣正と吉増剛造。
このふたりの対話が実現すれば、多分同時代の筋肉
言語と内蔵言語の幸せな顕在化・実現となるだろう。
川俣さんが都市空間の中でインスタレーションとして
展開してきた多くの仕掛け・装置。
それは時代の内なるコミュニケーションの顕在化だった
と思う。
個々の身体・風土から発する固有の回路。
それが現代は、都市構造の物流や流通の回路に埋もれ、
身体回路は電気端末の指先操作に閉じられる。
川俣正は木材を駆使して内も外も縦横に張り巡らせた
異空間を、突如都市の一角に出現させる。
そのダイナミックで大胆な作品は、どこか深く人の心を
捉えてきた。
炭坑街うまれの川俣正。
炭鉱労働者の街の筋肉言語の純粋化形象と思う。
吉増剛造の今展示の基調低温(トニカ)のひとつは長編
詩「石狩シーツ」である。
この詩篇の最終行は「女坑夫さん・・・」のリフレーン
で終わっている。
多摩の絹の道を経て、明治の絹織り物の担い手・織姫と
重なるように、石炭産業の担い手・女坑夫さんの発見が
この詩のクライマックスに顕れている。
吉増剛造は、近代のより深い内部に分け入り普遍的な
人間の回路を尋ね探し続けている。
それは今回吉増の<声ノマ>として全開し空間となっている。
会場内コーナーを繋ぐ<声>は、川俣正の室内外を廻る
木材と同質の回路存在なのだ。
川俣さんの炭坑労働者のような隆々たる筋肉言語回路に比し、
吉増さんのより内面的な深い呟きのような身体性言語は、より
身体の内臓言語に近い。
しかし共に時代の最先端でその身体言語を駆使し表現を深めて
いる第一線の表現者であることに変わりはない。
むしろ一見他ジャンルに属するかにみえて、その世界への視座
は、非常に同時代であると私は感じている。
今回の東京国立近代美術館の展示は、誠に千載一遇の機会と思う。
詩人が目に見える形象で、その本体を美術館で晒す機会など、そう
あるものではない。
近年川俣作品は俯瞰する視座から発する事が多い気がする。
あの身体を室内外全体で揺さぶり、世界を既成回路から解放した
内と繋がる筋肉回路が、頭脳の俯瞰する風景・光景へと優しく退い
ているような気がする。
そして吉増剛造もまた今回の展示で自らの原風景を、ラジオ。新聞
自叙伝等至る処で語り出している。
これもある種の原風景の俯瞰行為と思う。
そんな今だからこそ、ふたりは対話すべきなのだ。
同時代を代表する筋肉と内臓として・・だ。
*「石狩・吉増剛造 1994」展ー7月31日まで。
am11時ーpm7時:月曜定休(水・金 都合により午後3時閉廊)
*「ムラギシ没後10年」展ー8月8日ー14日:12日夕刻追悼ライブ。
:「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」ー8月7日まで。
am10時ーpm5時:月曜定休。
東京国立近代美術館 東京都千代田区北の丸公園3-1
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503