清流というか、渓流というか、身体にもそうした流れを
取り戻さねばならぬ。
肩に水が溜まるというのは、函ならぬ箱の状態が生まれて
いるからだろう。
自然の川のように、谷川には函と呼ばれる淵がある。
大函・小函と当て字されるが、そのまま箱と記される場合
も多い。
違いは流れが基本にあり、箱は閉じる状態だ。
一方の函は、溜まりつつも基本的には緩くも確実に流れがある。
人の体も同じである。
溜まりつつも流れている。
溜まりっぱなしでは、病となる。
身体にも貯水ダムのような筋肉や、流れを司る吸収・排水機能を
腎臓が担っている。
血液・体液の集散地のようなものと思う。
腎臓は箱ではなく函なのだ。
身体の川も流れ続けなければいけない。
閉じた箱になれば病となる。
若い時韋駄天と呼ばれた時期があった。
暑寒別岳に登った時、帰路雨が降り出し急ぎ雨竜沼湿原から一気に
登山口の山小屋まで駆け下りていった。
途中傘を差しながら登山路脇の渓流をゆったりと見下ろしている
夫婦がいた。
その傍を一気に駆け下りて、登山小屋に着き休んでいた。
程なく先刻の夫婦が到着して休んでいる。
その時何気なく話しているのが聞こえる。
ああいう韋駄天みたいな時代もあったなあ、あれはあれで
楽しかった・・・。
そう聞こえた。
そして私は反射的に道端のふたりの姿を想い出していた。
ゆったりと谷の下の渓流を眺めていた。
すでに紅葉の忍び寄る雨の渓川を。
一瞬、ああ良いなあと感じた事を想い出していた。
心の函の時間だなあ、・・。
跳ぶように、まるでスキップするように山道を駆け下る
のもすごく楽しいことだった。
あれは身体の渓流の時間。
そして同時にどこかで、あの夫婦のように雨の中ゆったりと
傘を差し渓谷の渓流を眺めている姿にも心惹かれている自分
が居たのだ。
私の暴力的韋駄天歩行にも批判的ではなかった。
ああいう時もあったなあ~と懐かしんでいた。
それが今何故か急に想い出される。
胎内の渓流、水の函、韋駄天、病。
時にあのふたりのように、時に傘を差してゆったりと自分自身
の渓流を見詰めて見よう、と思う。
閉じた箱にはならず、開いた函として・・・。
*「石狩・吉増剛造 1994」ー7月31日まで。
am11時ーpm7時:月曜定休(水・金 都合により午後3時閉廊)
*ムラギシ没後10年展ー8月8日ー14日:12日ライブ
:「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」ー8月7日まで。
am10時ーpm5時:月曜定休。
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