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テンポラリー通信

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2016年 06月 19日

黙々と・・・-回路(5)

<サンパウロ滞在二年目の日々も蟄居。ほとんど外出せず
・・・自己幽閉の状態であった。>(吉増剛造「裸のメモ」
1994年ー木浦通信324頁)
その為2年のサンパウロ生活を切り上げ帰国。
その後も心的混乱は続き詩作の放棄まで考えると記されて
いる。
その頃である、石狩に滞在し銅板を打刻し「石狩シーツ」
制作に集中したのは・・・。
現在展示中の7葉の草稿は、その途中経過を記録として展示
した原稿である。
タイトルは「石狩河口/坐ル」。
この時点でこの名作のタイトルはまだ決まっていない。

何故今東京国立近代美術館で開催中の吉増展に並行して
この展示を企画したかといえば、この草稿の書かれた時
こそが現在進行中の「怪物君」の原点と思うからである。
ブラジルへ旅立つ前年石狩河口で見た大野一雄の舞踏公演。
その鮮烈な記憶が<詩作の放棄>まで考えた吉増剛造を奮い
立たせたと思う。
従ってその時の大野一雄の公演ポスター、公演記録集を入口に
展示し、「石狩シーツ」未完草稿を展示した「石狩河口/坐ル」
展フライヤー7種及び完成後制作された本人朗読CDそのポス
ター、初出掲載誌1994年ユリイカ12月号等を2010年
「石狩河口/坐ル ふたたび」展DMと続けて展示した。
さらに2012年から毎年続く「ノート君ー古石狩河口から書き
始めて」「怪物君」「水機ヲル日。・・・」「怪物君歌垣」まで
のフライヤーを展示した。
そして今回の東京展フライヤー及び図録も最後に掲示した。

貧しい展示だがこれらはみなテンポラリースペースが所蔵する
資料であり歴史である。
ここでしか出来得ない草の根の資料である。
東京国立近代美術館の壮大で重厚な展示に、その草の根として
少しも恥じる事のない展示と思っている。
そして今だからこそ集中して、展示という陽の目をあてるべき
時と思うのだ。

東京吉増展最後のコーナーは裏方の廊下のように物が積まれて
その突き当りに大画面で川岸で草稿が炎を上げ燃えている画面
が流れていた。
美術家飴屋法水氏の映像である。
図録によれば「ノート君」までの草稿の大部分を使っていると
いう。
石狩河口の岸辺で燃やし撮影したとも聞いた。
「石狩河口/坐ル ふたたび」展と「ノート君」の間には
2011年の3月11日があり、この年は展示はなされていない。
「ノート君」展示は翌年2012年12月からである。
その間書かれた草稿をたぶんすべて飴屋氏に吉増さんは託した
のだろう。
飴屋氏の映像を右折すると、かってNHKが制作した釧路湿原
の大野一雄と吉増剛造の共演映像が映し出されている。
これは1994年秋にNHK衛星放送で放映された映像だが、
新たに未放映映像も含めて鈴木余位さんが再編集したと聞いた。
その中で吉増さんが銅板に「石狩シーツ」と文字を打刻して
いるシーンが再生されていた。
”これが今書いている新しい詩のタイトルです・・”
そう呟いていた。
このコーナーだけは図録にも載せられていず、吉増さん自身
の作品でもない。
すべては飴屋氏の事前に申し入れた

  今回の展示は、吉増さんの詩(文学)ではなく、あくまで、
  視覚的な、ものを中心に、、

という趣旨を吉増さんが受け入れ草稿を提供し撮影されたものだ。
会場の順路最後に舞台裏の物置のようなシチュエーションの通路
の突き当りに原稿用紙草稿が燃えて灰になっている映像が流れて
、次なる本当に最後のコーナー(桟敷)では、あの大野一雄と
「石狩シーツ」の銅板を打刻する吉増の映像が待っている。
焼却という消失と再生を賭けた石狩シーツの誕生予告。
そこで吉増剛造展は、麻のような布のカーテンを引き上げ外に出る。
現代社会に対する深い予告と予感に満ちた会場構成・作品である。
この原点を再度確認するように私は今回の展示をしばらく続けよう
と思う。
遠く石狩・札幌から吉増桟敷・ランドへのエールとして。

*「石狩・吉増剛造 1994」7月31日まで。
 am11時ーpm7時:月曜定休(水・金都合により午後3時閉廊)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2016-06-19 16:14 | Comments(0)


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