この場を通り過ぎ縁あって今収蔵品となっている作品たち。
それらを収蔵庫から出していると、その中に22歳で最初で
最後の展示した故村岸宏明の絵画が目に入ってきた。
個展の2週間後旅行中四国の鏡川で遭難死し、1年後
遺作展を催したとき高校時代の彼の友人から預けられた
作品である。
血のような暗い赤の濃淡を背景に膝小僧と両足だけが
立つているのか、吊り下がっているのか両方にも見える
黒い両足が描かれている。
その両足に白い骨のような両手が足を抱えようと膝から
下へと伸びている。
遺されたノートには、
雲の向こうに細い月の昇りつつある午前3時
まだ寒さ残る 白い外灯と
雨垂れの音だけに今は
膝をかかえうずくまる
膝を抱えうずくまる
膝を抱えうずくまる
という制作時の記載が遺されている。
この2002年高校3年の作品が不意に私の心を掴んだのだ。
それは若くして死んだという追悼の気持ちで見ていたこの作品
が、それ自体独立してすっと今の私の心を撃ったからである。
自ら立とうとしているのか、宙に浮いて立てずにいるのか、
白い骨のような手指が黒い両脚をかき抱くように這いまわる。
足下は黒い血のような液状の地が広がって背後に浸みている。
足の踵も爪先も大地を垂直に撃つてはいない。
その足下のグランドをこの両脚は必死に探し、着地せんと
訴えている。
同時にちょうどその時収蔵庫から出していた東北の村上善男
「常盤村紙円の繰り」と札幌の岡部昌生「砂沢ビッキ神の舌彫痕」
を見比べていて、その3点のアンダーグラウンド・立脚点の差異に
気付いていた。
作家の年齢やキャリアではなく、作品そのものが抱えている立脚
地の風景である。
村上善男は東北モダーンの作家らしく、和紙の古文書を下敷きに
糸で円を紡ぎモダーンでクラシックな不思議な造形を創っている。
また岡部昌生は北海道の先住民族であるビッキの作品を下地に
その木彫りの鑿痕を擦りだし独特のフロッタージュ作品に仕上げて
いる。
それぞれが生きている風土にしっかりと両脚を降ろし表現の背景に
据えているのが感じられるのだ。
同じ北方でもふたりの現代美術の風土の北海道と東北の違いが
よく分かる作品だ。
一方の村岸宏明の作品は、私にはもっと切実に直裁に感じられる。
拠って立つべきランド、それすら不確かな両脚。
その血の焦げるような足下と空気の中で宙に浮いている両脚。
それを支え抱きかかえようとする白い骨のような両の指。
その狂おしさ、切迫感が今心撃つのである。
和紙に残る漢文の伝統でも先住民族のアイヌの血を引く
木彫りの鑿跡でもない今という時代の難民のような足の下。
作家の年齢やキャリアではなく、作品自体が保っている固有の
世界がすべての先入感を取り払って、この時私にはリアルに感じ
られた。
ああ、この絵は今の私だなあ。
縁あって今ここにある多くの作品たち。
これらを今一度、自分の今の眼で再構成し展示してみようと思った。
そうMの作品が提案してくれた気がする。
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