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テンポラリー通信

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2015年 04月 14日

ふたつの展覧会ー斜道(6)

アキタヒデキさんが二つの会場で写真展を開く。
「こころ」と「せかい」と題している。
両方の会場を紹介する非常に意欲的なフライヤーが、
先日届けられていた。
四つ折りで開くとポスターにもなるアキタ色満載の
美しいフライヤーだ。
山田航さんがこれに寄せた一文が大きく載っている。
「泣きたくなる写真」というフレーズが15行程の短い
文章に三度も繰り返され、心に響いてくる。

アキタさんが最初個展の開いたのは2008年で、その
時はユニクロTシャツデザインの大賞を受賞した時で、
写真家というよりはデザインの仕事が中心だったと思う。
しかし本人はデザインに収まりきらない表現者の意識が
濃厚で、写真はその中の一つであったと思う。
展示期間中、彼の写真に注目したのが後に三角展で一緒に
写真展を開く事になる写真家の竹本氏とメタ佐藤さんだった。
その頃からアキタ君は自らの表現領域として写真を意識する
事が大きくなってきたように思う。
それでも自ら写真家と名乗るより、平面作家と自称すること
が多かった。
今回彼はそのジレンマを初めて真正面から向き合う為彼の中の
写真という概念をふたつに分けて提示している。
それが「こころ」と「せかい」である。
彼は今までカメラで撮影した被写体に過剰に光を赤くしたり
フィルターを極度にかけたりと、非常に情念的に見える加工
を被写体にほどこしてきた。
そうせざるを得ない何かが彼の心には蠢いていたのだろう。
正直な人である。
内側から溢れ出るものとレンズの向うにある被写体という現実。
レンズのこちら側で叫ぶのだろうか、
これを選んだ自分というこちら側の現実が。
それが自分の撮った被写体に過剰なまで何かを上塗りさせるのだ。
そうしたこれまでの写真へのジレンマを、「せかい」と「こころ」に分けて
発表する事で自らにも他者にも問おうとしている。

言葉に拘っていえば、写真という文字にすべては語られている。
<写>・<真>なのだ。
真は心のシンでもあるだろう。
そして同時に現実の真実の真(マコト)のシンでもあるだろう
どの被写体を選び、どの角度で撮るかだけでも、世界の見え方は
違う
その視線・視角に写真家の生き方全ても写し出される。
それが多分本来的な写真家の在り様だとも思う。
それ以上に写真そのものを素材として自らの<こころ>を重ねる
とすれば、それはアキタヒデキという表現者の誕生であって写真
というジャンルの問いではないと思う。

アキタヒデキは正直で過剰なる人である。
だからカメラという写真の領域にも正直に立ち向かう。
そして同時にカメラを通した被写体現実への直接的な心も隠せ
ない。
それが時に絵描きのように青や赤の光で被写体を染め上げるのだ。
その過剰さこそが彼そのものなのだと私は思う。

アキタさんに前回ここで個展をした高向さんの作品を見て欲し
かったと今更思う。
書道の世界で書から過剰になった情念を鉛筆絵画で表現し写真
では色で表現していた。
多分アキタさんと同世代の高向さん。
彼女は書の白黒世界を鉛筆画の世界で過剰な真実・心を表現していた。
それは書というお手本のある世界から溢れる過剰なる心の為せる
業である。
ここでも写真の真を文字に置き換えれば、アキタさんと同じ心の
叫びが渦巻いていた事が分かるのだ。
今言える事はアキタヒデキはアキタヒデキであり、高向彩子は高向
彩子だ、という事実である。
その事実は同時に自らの真実として自立し、再び書に写真にと
立ち向かうだろう。

それぞれの表現の故郷がどこにあるのか。
主題と手段の真摯な模索が隠された本当のテーマでもあるふたつの
展覧会と思える。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2015-04-14 15:26 | Comments(0)


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