もうあの韋駄天と呼ばれた歩きはない。
けれど私の人生は、歩行が基本にあるような気がする。
いつも大事な変わり目の時に歩行があった。
今の場所を探した時も4ヵ月近くほぼ毎日の歩行があった。
地質図と古地図と今の地図を片手に歩いた。
20代の終わりの頃登山の魅力に嵌り高山・低山を問わず
歩き回った。
そこで鍛えられた地図を読む力が、地質図を通して今の街
の下に眠る地形を読む方向へ導いてくれた。
山だけではなく何の変哲も無い街路の下に眠る川や丘の起伏
を見る目を見つけていたのだ。
ある時代まで人は間違い無く自然の起伏とともに集落・町
を造っていた。
その事実は足で歩くと良く分かる。
かっての村境が自然の地形と共に在り、川や山の存在と密接
に繋がってある事が分かる。
時としてその境で風も雨も天候さえ違うからだ。
祖父・父の仕事を継いだ後よく道外へ窯元の仕入れの旅に
出た。
その時も見知らぬ土地を歩き回った。
自分で見つけた作品をその作者のいる土地を訊ね歩き、人と
作品と土地の風を感じた。
歩行はなにも新奇な見知らぬ場所ばかりではない。
いつも歩く道にも新たな発見がある。
見過ごしていたものが見える時がある。
歩き染めて、歩き深まる道がある。
そうした魅力的な道は概して古い道が多い。
人馬を基本とした路幅の道。
人を基本とした小路、仲通。
自動車が中心となってからは、人の蛇行が省かれる直線の
ロードとなって目的地へ繋ぐ線となっている。
物を運ぶには最適だが、歩行ではない。
最近そんな車のような早足のスタイルと歩行を見る。
街路が地上に地下に整備されてそのリズムが反映している。
街に韋駄天・飛脚が増えている。
みんなS急便の飛脚のようだ。
山で韋駄天だった時は足下も定かでない山道での瞬間的
反発力が楽しかった。
足元から目も耳も両手も全身の筋肉が山の自然とともに
躍った。
山の懐で山の自然と一体となる。
それが楽しかった、
運搬や移動だけではない汗の行動が歩行にはある。
早さも遅さも目的ではない。
どちらもそのリズムで味わう過程であって、それは歩行の
範疇なのだ。
だから韋駄天も否定はしない。
しかし現代の道路構造は移動を基本とする。
それは速度に重点を置いた構造である。
タワービルに地下鉄に自動車にエレベーター。
高速電車に新幹線。
物理的距離は短く縮まるが、足元に眠る未知は消える。
目的へ向かう直向(ひたむき)な感性の足が消える。
道から未知が消え、足が溶けてゆく。
それではまるでお化けじゃないか・・。
*高向彩子書画展ー3月24日(火)-4月6日(日)am11時ーpm7時
月曜定休。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503