木彫りの熊という具体的なものに触れながら人はより抽象的
な思いを抱いている。
岩見沢から所蔵の熊を持参して見せてくれた人がいた。
内側の筋肉が盛り上がるような下向きの熊。
もうひとつは彫線が鮮やかな外へ向かうような熊。
後者は気が外へ向いて木彫作品としては未完なところがある
が、なにか訴えるものがある。
居わせた人たちはふたつを見比べて、やはり後者の未完成の
ような外に気の溢れている方を手に取り眺めている。
彫線のひとつひとつが彫る人の心の高ぶりを伝えて、その時
の生活感まで溢れてくるようなのだ。
作品としてはその溢れるもが勢いあり過ぎて未完成の面があ
るが、それが逆に見る人の心をそそるのである。
もうひとつの内側に力を蓄えているような筋肉と毛の大き目の
熊は技術的にも完成度が高く彫刻として優れてはいる。
しかし彫りの内向きな力が目をそこで留めさせる。
もうひとつの多少荒削りの外向きの彫りの熊は、見る人の心
をそそり手に触れたくなり色々語りたくなるなにかを内包して
いる。
木彫りの熊という非常に分かり易い具象を通して、人は深い
心の抽象を感じている。
それは作品の保つ木彫りの彫刻の一鑿々の線が惹き起す回路
が繋げている心の描線でもあるのだろう。
個々の木彫りの熊の保つ彫刻としての作品力を抜きにこの多く
の人の会話は語れない。
具象を通して人は深い心の抽象に触れる。
その具象が生活の根を保ち、鑿跡が心の襞に深く触れる時
個が開放されて他者へと語りだす普遍性の階段を上りだす
のだ。
作品が個へと届きだすのである。
抽象とは本来そうした具象へと及ぶものの事ではないのか。
木彫りの熊という具象を通して人は解放され、安心して自分
という個を振り返っている。
そしてその解き放たれた自分を他者へと語りだす。
聞く人もまた同じ思いを共有して自分という個を語りだすのだ。
木彫りの熊はスマホのように存在し、かつもっと他者に開かれ
る存在だ。
街でケイタイ・スマホを覗き込んでいる人を見て、そう思った。
木彫りの熊一体のほうがあの電子機器よりより一層広角度で多
機能である。
芸術作品とは本来そうした深い本質的な伝達物なのではないのか。
今日で「山里稔と木彫りの熊展」も最終日。
開場と同時に今日も人が来て絶える事が無い。
*山里稔と木彫りの熊展ー11月30日まで。
am11時ーpm7時。
*吉増剛造展「水機ヲル日、・・・・」-12月9日ー1月 11日。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel.fax011-737-5503