作品破損事件の詳細が段々と分かってくる。
作家が近くに居る時悪戯は起きたようだ。
すぐに悪戯し過ぎたと笑いながら謝ったと言う。
友人だっただけにその場で謝られて、その時は
曖昧に過ぎる。
その後苛立ちと怒りが込み上げ深く傷付いたのだ。
さらにその後SNSの本人のプロフィール写真がガッツ
ポーズの写真に替わっていて、それを見て尚悪戯を超え
た悪意を感じて気が滅入ったという。
あの時私は奥の談話室に他の人と語り合っていたので、
何も知らなかったが、こういう時は直に伝えて欲しかった
と思う。
ギヤラリーという展示空間に作品を置いた時、もうそこで
作品は作家の手を離れて別の次元の増幅空間に在るのだ。
他者へ向かって作品の窓が開かれ、新たな世界を紡ぎ出す。
その作品振動増幅の起点に画廊主の存在がある。
今回の場合でいえば、断固としてその破損者に抗議し責任
を取って貰う。
友人知人という作家の範囲で収める問題ではないのだ。
作品はもう手を離れて<contemporary>な<con
(ともに)>の次元に増幅して存在しているからである。
自分の・・という私的側面から解き放たれていなければ
ならないのだ。
友人の悪意ある悪戯を自分の胸に納めて1日、辛い思いが
抑えきれなくなったのは自然な事である。
展示発表の基本に戻れば、作品は作家の個から窓を開けて
他者の世界へ外界へと羽ばたく。
そういう場所としてギヤラリーが在る。
アトリエの作業場とはもう違う次元の空間なのだ。
そこで役割が出てくる。
画廊主と作家の役割である。
自分の作品の傍にいて自分の作品を語るのは嬉しい、楽しい
事であるのは間違いない。
しかし作品は作家の手を離れてもう存在している事も事実で
ある。
何時も傍に居られるものでもないし、居なくても存在するのが
作品という物である。
空間は自立して存する。
そういう場として作家も選んだ筈である。
独り立ちした子供のように、いつも世界は好意的である訳
ではない。
時に深く傷つけ敵対する事もあるだろう。
然しして、言える事は凛として見事な作品と展示という事だ。
恥じる事は何も無いよ、中嶋君!
*中嶋幸治展「風とは」10月5日(日)まで。
am11時ーpm7時。
*メタ佐藤写真展「光景」-10月7日ー19日
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503