Wさんが訪ねてくれた日、写真家のY氏も来てくれたという。
閉まっているので車の中でしばらく待っていると、教育大生の
S君が来たのでふたりでしばらく話し待っていたという。
その時もう一台車が止まっていて、こちらも誰かが待っていた
ようだという。
この車は多分Wさんだったかもしれないと今思う。
沈没したこういう日に限ってこういう事がある。
S君は卒論を書き上げそれを見せにきてくれたと翌日Y氏から
聞いた。
みんなに迷惑をかけた翌日Y氏とともに円山某カフエで展示中
のシーズン・ラオさんの写真展を見に行く。
マカオで生まれたこの青年写真家とは以前一度お会いしている。
そんな一度の出会いだったがわざわざ今回の個展前にお酒を持っ
て挨拶に来てくれたのだ。
それで同じ写真の道を志しているY氏にも見てもらいたいと思い
一緒に行く。
手漉きの和紙にプリントされた北海道各地の雪景色が淡いセピア
色の中に浮かんでいる。
雪が白い包帯のように街を梱包している。
この柔らかで優しい雪の包帯は、マカオに生まれ育ったラオさんの
心が映しこまれた雪景色なのだろうか。
上海と同じように植民地の傷跡をもつ南のマカオという街から来た
青年に、この白い雪の風土は傷痕を癒す自然の白い包帯のように
柔らかく優しく存在しているかに見えるのだ。
「凛ーspirit of snow」と題されたこの写真展には
そんなラオさんの生まれた街に遠い記憶が潜んでいるようだった。
手漉きの和紙を選んだ理由も、この彼の撮った雪の柔らかさと重なる
ものがあるのだろう。
水道を凍結させ、気力を萎えさせる厳冬の白ではない雪の白がここに
は在る。
同じ雪の北海道を撮ったマイケル・ケンナの写真集と比べると、そ
の違いはよりはっきりとする。
雪の存在感がラオさんの方がより優しく柔らかで風景を抱擁している。
マイケルの雪は水墨画の濃淡のようにシャープな印影を保っている。
雪は柔らかで優しい抱擁ではなく、人間の痕跡を残す構造物や防風林の
方にその眼差しの重力がある。
それに比しラオさんの撮る写真は、構造物より雪に優しさの比重がある。
この違いは大きくは西洋人と東洋人の相違でもあり、さらには植民地
マカオに生まれた者の傷痕の深さの相違ともいえる気がする。
まだ20代の若い青年であるラオさんが、故郷のマカオを撮った写真
集も併せて見せてもらったが、この写真のもつディテールはこの街が
もつ深い傷跡そのものが白日に晒され蠢いているような気がした。
そこには白く抱擁する包帯のような柔らかい白はどこにもない。
それはかって廃墟のように見捨てられた閉山時の夕張を訪れた時の記
憶を私に思い出させて、それを見ていた。
この廃墟のような傷痕の記憶こそが、白い雪の梱包を包帯のように
優しく感受させるなにかである。
同じ雪でも見る人間の心の位相によって見える見方は大きく違う。
雪の寒さだけに負けてばかりもいられないと思うのだ。
ラオさん、ありがとう。
*高臣大介ガラス展「ひびきあう」-2月18日(火)-23日(日)
am11時ーpm7時。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503