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テンポラリー通信

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2013年 07月 17日

都市論としてー道程・文月(13)

河田雅文さんのCaballeroスペースに行き、その場所の
保つ雰囲気が、都市の余剰と自由の部分に属している
と感じていた。
碁盤の目で格子状のデジタルな街。
その仲通という存在は、いわば大路に対して余剰の部分である。
そこに自由が芽生える。
大路が街の本質であるなら、中間の仲通・小路はそこに住む人
間たちの実体の息づく場である。
私の街体験からいうと、仲通は子供の遊び場であり仲間達との
出会いの場でもあった。
長じても仲通には喫茶店や蕎麦屋や居酒屋などがある大人の
遊び場でもあった気がする。
そうした街仲通が表通りの大路に対して、集う人間を受け止め
ていた実体があったと思う。
本質は格子状の直線で仕切られた街路だが、そこに余剰として
裏通り・仲通が生き、自由な界隈というゾーンを生む。
都市の自由という現象は、仲通・裏通りという実体に支えられ
ながらも本質的には直線の格子によって支配されている。
河田さんの今回の”ZO”展会場のあるビルの位置は、正にこ
の仲通・裏通りという余剰と自由の狭間に在る。
仲通の間口の狭い古い7階建てのビルの一室。
そして7階にテラスのあるジャズ喫茶店。
大路にはない小路の裏町が保つ余剰空間の自由なのだ。

私が今展示中の佐佐木方斎さんの3部作「格子群」「余剰群」
「自由群」に感じていたものは、この三段階の都市論として
純粋抽象化されたものである。
作家本人は数学の概念からこの3部作のタイトルを考えたと
語っているが、私にはこの三段階の展開は都市の問題として
感受される。
そして哲学の認識論である現象ー実体ー本質の三段階理論と
重なってくる。
さらに自分自身の街体験の生まれや経験とも重なって感じる。
そうすると「余剰群」は仲通・小路となり、そのゾーンから
街の自由が生まれる。
しかし本質は直線で仕切られた都市が顕われてくる。
さらに都市化が進むと実体としての住民は消えて、仲通・裏町
・小路も物流の搬入通路へと変貌して、トラックの停まる本当
の裏通りになってゆく。
つまりは本質である直線で仕切られた大路の純粋な脇でしかな
くなるのだ。
都心の夜の静寂を思うが良い。
余剰も自由も消えて、シンとした大路の直線だけが存在する。
そして昼はショッピングビルの商品搬入口として殺伐として
いる。
数学上の純粋概念は別にして、私が感じる都市論としての
3部作の展開は「格子・余剰・自由」群はそのように在る。

格子の直線デジタル市街地からいかに余剰を自由として溢れさせ
街を活き活きとして取り戻せるか。
小樽の場合には直ぐ傍に広がる海という自然の存在が、決して
直線化する格子群を本質として存在させ得ないものとしてある
から、札幌とは違った都市の構造を保って発展したのだろう。
それが今展示中の一原有徳さんの鏡面ステンレスの作品にも
反映してあると思える。
直線はそこで曲がり歪んで映し出されるのだ。
そして小樽は坂の多い街である。
起伏が多く直線は馴染まないのだ。
従って余剰群と自由群が主流となる地形でもある。
かって小樽が商都として栄えたのは本質が余剰と自由にあるから
とも思える。
一方札幌は内陸の扇状地として拓かれ、計画的に碁盤の目状に
造られた。
従って官と農が主体の管理空間でもある。
つまり格子群の街なのだ。
そこから余剰と自由を如何に生み出すか。
それが札幌に課された文化の質の問いである。
実体は格子群の直線に支配され、辛うじてあった仲通文化も
都心では消えつつある。
今や河田さんのCaballeroの一角にその挑戦を感じる
だけのように思える。
瀧口青年の夢を育んだ余剰と自由の小樽の街角は、札幌でも
可能であるのか。
河田雅文さんの瀧口への想いが乗り移った展示は24日まで
続く。

*「記憶と現在ー小樽・札幌」展ー7月21日(日)まで。
 am11時ーpm7時:月曜定休。
 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
*”ZO”展ー7月24日(水)まで。
 am12時ーpm8時:月曜定休。
 Caballeroー札幌市中央区南1条西1丁目2番地大沢ビル4F
 tel09076401305

by kakiten | 2013-07-17 12:58 | Comments(0)


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