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テンポラリー通信

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2013年 06月 13日

碧血の空ー光・水無月(9)

雲ひとつ無く今日も快晴日。
紺碧ならぬ青白の空。
瀧口展の小樽体験がまだ尾を引いて、この青空さえ
少し悩ましい。
もう少し深みを保てよ、と呟いてみる。

私の祖父は明治20年頃福井から小樽へと入り札幌まで
歩いて入ったと聞く。
おりしも札幌大火の日で、札幌の町は燃え上がっていた
という。
先日歩いた山田さんのご先祖藤田農場のある茨戸の石狩
河口からの道とは違う回路である。
瀧口展を見て美術館・文学館を出るとすぐ近くに古い鉄路
が残っていた。
手宮線という札幌ー小樽を結んだ鉄路である。
この日本で三番目に開通した鉄道こそが、ふたつの町を
繋ぎ近代の物流の大動脈ともなったものだ。
石狩河口から遡るバラト街道は、それ以前の自然の地形に
沿った川の道である。
小樽の港は春香山山系に遮られ、地形的にいえば後志国と
石狩国の急峻な界(さかい)で分かたれている。
天気予報で記される地形の相違はそのままふたつの国の違い
でもあったのだ。
祖父の覚書に残された和紙の筆書には、札幌の住所が
石狩国札幌とはっきりと記されている。
鉄路が豊かで先に開けた港小樽と内陸の都札幌を繋ぎ、本来
の札幌の入り口である石狩への道は主流ではなくなっていく。
札幌と小樽はその意味では、近代の物流が繋いだ二都物語と
いえる。
しかしして、物流の利便性・経済性を除けば、このふたつの
都市は別の性格を保った都市である。
古く明治以前から開かれていた小樽の港町と、道庁開設とともに
拓かれた新興都市札幌とは、自ずからその成り立ちも違うのだ。
札幌の中心地は官によって計画的に碁盤の目に造られ、官が主体
となって出来た街である。
一方小樽は豊かな港経済が栄えた商・民の街である。
この違いは今もなお街の基底に流れている。
札幌形成のもうひとつの要因として、官の他に茨戸から入植して
いった農の回路があるだろう。
それが先日歩いた元村(バラト)街道の風景なのだ。
後志の地形とは違い、内陸に緩やかな傾斜で広がる石狩平野の奥に
位置する札幌の道は、旧札幌川沿いに泉と川の交錯する平坦な原野
であったのだろう。
その肥沃な大地を開拓し農の道は拓かれた。
そしてその象徴が、旧帝国大学の札幌農学校であり月寒丘陵に位置
する八紘学園である。
どちらもが近代農業・酪農の拠点として開かれたものだ。
札幌と小樽の違いを考えると、そこには民・商と官・農の差異が
大きくはたらいているような気がする。
そしてなによりも文化の母胎風土とは何か、と問う時、そこには
民・商の力が大きな要素を保っていると思わざるを得ない。
札幌は今も官主導で国際芸術祭などを進行中と思えるが、そこに
民・商ではなく官・産業を母胎として計画されている観がある。

札幌にあってもし小樽に無いものがあるとすれば、それは官・民
を問わず建てられた札幌軟石の建築物のような物なのかもしれない。
元村街道に点在した玉葱倉庫群やより内陸の林檎倉庫に見られる
農の建物群。そして官の裁判所や公的建物に見られる同様の石造り
煉瓦の建築物である。
これは小樽にも見られる物ではあるが、札幌は民(商)の力ではなく
官(農)の要素が大きいと感じる。
さらに言えば、近代洋風建築の嚆矢田上義也の洋館建築群があった
事も忘れられない。
ただこれらの建築物は今ほとんどスクラップアンドビルドの波に
呑まれて、点在しゾーンとしては存在してはいないのだ。
今唯一遺されたゾーンは、官の領域が強い旧帝国大学北大の領域
に広がる緑の運河エルムゾーンのみといえるかも知れない。
官の保つ力によって皇居のように広大に残されたこの一帯には、
近代の洋館建築物と本来の地形と樹林が残されている。
扇状地で豊かな泉の湧く土地に立つ春楡(エルム)が生い茂り、
その原風景が在る。
小樽の保つ民・商の熟度に対して唯一比肩できうるものは、この官・
農の遺したこのゾーンの保全しかないと私は思う。
そしてパブリックの本来の公共といく概念を真に公共として取り戻す
為に、リパブリックな<Reー>の試みこそが今問われていると思う
のだ。


*記憶と現在展ー6月12日(水)-30日(日)am11時ーpm7
 時:月曜休廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北26条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2013-06-13 13:01 | Comments(0)


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