夜半に降り積もった雪が純白の大地を造る。
その上に青空が広がって、世界は白と青に静まる。
雪掻きをする人影が路傍を横切って、時に雪の軋む音。
空中の汚れ・音を雪が吸い取り、清浄な光が街を満たし
ている。
踏み跡を辿りながら、不安定な路を歩く。
眼は白い雪面に眩しく遠近を喪い、路の凸凹を見失う。
全身でバランスをとりながら、眼以外の身体機能を路に
注いで歩く。
雪道の歩行は時に格闘技のようでもある。
大きな車道に出ると、車の轍が路面をさらに不安定にする。
背後に迫る車が来て、前後左右に身体は緊張するのだ。
道の曲がり角に雪に埋もれた公園が時に在ったりする。
そういう時に公園の中に立つ古い樹木が、ふっと一時眼の
休息を与えてくれる。
歩行も緩んで、梢の視線に空を見る。
短くこの時人は樹と対話している。
百のインフラ施設より、この一瞬の方がどれ程人は人らしく
世界と向き合っているか。
雪を土として世界と向き合う。
そんな風土の保つ視座が、雪の無い土地には無いなりに別の
回路で在るに違いない。
東京北区王子に伝わる飛鳥山の様々な資料を秋元さんから
見せて頂いてそう思った。
この小さな丘が人々の暮らしに与えた里山のような豊かさは、
多分今の時代に考えるよりもうんと深く大切なものだったように
思う。
都市のインフラ施設のみが、その比較対照の要件のように比較
されるが、本質的にそれは表現の絶対条件ではない。
風土が保つ固有の環境こそが、作家の固有性を生む筈である。
そこをメガロポリス(大都市圏)のインフラの視点から地方を見る
ような芸術文化の視座は、都市帝国主義の虜としか思えない。
東京電力が東北に電気供給基地を設け、関西電力が北陸に電
気供給基地を設ける。
そうしたメガロポリス帝国主義の延長線上に芸術文化の地平を
設定するなら、固有の風土はマイナーな植民地経済と変わらな
いものとなる。
雪には雪の土がある。
そこに風が吹き、世界は広がる。
雪の土は風とともに新たに固有の風土を創ってゆく。
その見えない風を、文化と呼ぶのではないのか。
土だけでも文化は生まれない。
風とともに、綿毛のように世界に飛ぶ。
そしてそこに新たな土壌を創ってもゆく。
それを真に文化と言う筈だ。
*秋元さなえ展「121年前のよろこび」-2月12日(火)-21日(木)
am11時ーpm7時:月曜定休。
*今田朋美・久藤エリコ展「ハツゲン」ー2月24日(日)-3月2日(土)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503