東京・Y氏より昨年2月から今年2月までの一年間の詩人吉増剛造を
撮った写真と文章が送られてくる。
感想を書き再び送り返して欲しいという事だった。
2011年2月22日東京・月島に始まり、3月22日神奈川・日吉、4月22日
鮎川信夫賞贈賞式、5月22日岩手・釜石・大槌、6月22日アメリカ・ボストン、
7月22日東京・まいまいず井戸、8月22日東京・秋川、9月22日東京・下北
沢→月島、10月22日東京・渋谷、11月22日東京・三田、12月19日札幌・
エルムゾーン、1月22日群馬・伊香保、2月22日東京・佃の自宅と月一回の
ペースで吉増さんのその時が記録されている。
毎月ほぼ22日に一日ひとりの詩人を追いかけ記録したモノクロームな
写真と文章は、あの3.11大震災を含む激動の時の記録でもあるのだが、
その事自体に直接触れる文も詩人の表情もそこにはない。
岩手の釜石・大槌の被災地の風景の中でも東京でも詩人の表情は変わらない。
きっとそれは詩人の歩行が、現象的な現実の表面を歩行しているのではなく、
深い翳のような場所を常に歩いている事の証明のような気がする。
撮られている事と撮っている事の間には、そうした深い場所の距離が常に在り、
その為撮る人と撮られる人の間には、ある距離を保った親和力が薄く張ってい
る。その表面張力のような弾けるものが写真の表面にも在って、それが不思議
な距離を写真にもたらしている。
近いけれど遠い。そういう不思議な触感のようなものである。
吉増剛造にとってのこの一年簡は、三千行の大作長編詩に挑みつつある一年
でもある。
内面的にいえば、非常にドラステイックな状況にある時でもある。
そうした内面の劇と現実の風景の中で撮られた風貌とは、必ずしも同じでは
ない。というかそれとは逆に深い心の流れを、伏流水のように感じてしまうのだ。
それはY氏の最初に吉増剛造との待ち合わせた文章にも表れている。
(待ち合わせ場所で)そこで、待っていて、待っていると、ふとあらわれて、
いったいどこからあらわれたんだろう、と思ってしまうくらいに、ふと、すぐ
そこにいらっしゃって、挨拶をする、・・・
・・・と、住吉神社へ向かっていると言う、言ったから、あとを追う、追わないと
見失ってしまいそうで、ついていくと思っているとどこかへ迷い込んでしまい
そうで、もうこのときには、何回かシャッターを押している、・・・
(2011年2月22日・佃)
近くにいるけれど掴めない距離感。
それは詩人の立ち位置からくる伏流水のような距離感なのだ。
その距離感はこの一年を通した写真にも、表面張力のように膜を張っている。
この写真集が吉増剛造の何かを写し撮っているとするならば、それはこの
伏流水のような詩人の感性の流れの示唆とでもいえるだろうか。
今年年末までには発表されるであろう三千行の大長編詩とともに、この写真
は大河の如く緩やかにしかし激しい流れを秘めた詩人のしなやかな面(おもて)
を映し出す仕事になると思える。
*森本めぐみ展ー6月17日(日)まで:am11時ーpm7時。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011ー737-5503