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テンポラリー通信

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2012年 03月 22日

濡れ雪ー風骨・3月(17)

朝降っていた白い雪は、家を出る頃濡れた雪に変わっていた。
黒いアスファルトが光って、土の混じった氷の路面を濡らしている。
暖気を秘めた灰色の空。
冬と夏の境がゆっくりと進行している。
工事現場のような、3日間の会場設営と作品展示の修羅場が夢のように
齋藤玄輔さんの作品は静謐な青い光の世界に浮かんでいる。
そのひた向きな展示・製作過程を微塵も感じさせない会場風景を見ている
と、ある種の職人のような完成度を思うのだ。
活字職人の技に、決して活字の痕を見せない事と聞いた事がある。
最近では故意に活字の凹みを際立たせる要求があると聞いたが、本当は
そうした痕跡を見せない事が本当の職人技と聞いた。
齋藤玄輔さんの完成度もその技に似たものがある。
美術の評価というものに、絶対的評価がある訳ではない。
その価値基準は極めて個人的なその時、その時代の個の生の現場
において判断される。
作品の実用的な分が稀薄であればあるほど、美というものは極めて
恣意的な部分に属してもいる。
一草の命の揺らぎを、多大な時間と手をかけて再現する労力と執念は
単純に技という言葉では収斂されないものがある。
しかしその優れた職人のような仕事の汗の痕を見せない潔さは、時に作品
の完成度というそれ自体の自己完結性に閉じて行く場合もある。
活字の話でいえば、活字職人としては邪道である活字の凹みを、時に
美術的意味に強調してその技術を使う場合もある。
その相違は、見せる価値観の位相の違いから生まれるものだ。
その価値観の相違にファインアート(芸術)がファインである所以も潜んでいる。
ひとつの卑近な例が汚れた被災地の家族写真のような例である。
写真館で撮影されたその家族写真は、技術的に完成された記念写真である
だろう。しかしそれが津波に流され泥だらけになり毀損して発見され、その写真
を持ち主が抱きしめるのを我々が見る時、もうその写真は単なる個人的な記念
写真ではないものを、その汚れ破れた写真の存在に感じるのである。
汚れ毀損しているからこそ、その状況において感受する写真の存在がある。
ファインなものとは、そうした位相にこそ浮かび上がってくる。
個人の記憶に閉じることなく、個から発して他を撃つ存在位相にファインな
虹が生まれる。
それは今回の東日本大震災のような、ある特別な状況においてそうなのだから、
それは状況論であって、美とかファインという虹と関係はないというひともいるの
かも知れない。
しかしこれは単なる状況論ではない。
何故ならこの一枚の写真の存在を抜きにこの状況は語られないからである。
この汚染し破れた一枚の写真の存在のように、作品が状況を媒介し他者に開く存在
と生り得ることを、今思うのである。

*齋藤玄輔展ー3月20日(火)-4月1日(日)am11時ーpm6時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2012-03-22 12:57 | Comments(0)


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