東京M美術館の正木基さんから郵便物が届く。
「’文化’資源としての<炭鉱>」展を企画して以降、次なる企画
「原爆を視る 1945-1970」展を企画しながらも種々の事情で
中断を余儀なくされ、さらにその後東日本大震災で自宅の書棚など
倒壊のまま台所で就寝し続け、体調を壊し最近まで休んでいたと
書かれていた。
最近やっと気力を回復し、溜まっていた仕事を始めたという。
フクシマの原発事故が起こる前に、すでに「原爆を視る」という企画を
立てていたのは、正直凄いなあと感心した。
石炭と原子力という二大エネルギー資源を主題に美術展を考えた
凄い企画力である。
しかしフクシマ以前の状況では、この原爆を主題とする美術展は
多くの賛同を得られなかった状況があったのだろう。
「’文化’資源としての<炭鉱>」展は、その内容規模において、白眉の展示
であっただけに、それに続いて企画された「原爆を視る 1945-1970」
展もまた、きっと素晴らしいものになったと思われる。
「・・・<炭鉱>」展の図録は会期中に即完売となった優れた資料だったが、
この「原爆・・」展においても500ページ、図版数1500点のカタログの予定
だったという。
もしこれがフクシマの原発事故前に出版されていれば、その企画者として
の慧眼はまさに原発事故の現在に先行していた快挙だったと思わずには
いられない。
そしてもうひとり昨年来病身にあると聞いていた登山家の早川禎治さんから
葉書が届く。その冒頭に、
「早川は昨年1月に死亡し今、生きているふりをしていますが、そう遠く
ないうちに空色一体となりましょう。」
と書かれていたので、一瞬吃驚する。
しかしその後「空体となってすでに自在となったせいか、今は福島のあたりを
高く低く飛翔しつづけ2011年3月11日以来書き続け、日誌は原稿用紙にし
て1300枚を超えました。」と書かれていた。
「アイヌモシリニ紀行ー松浦武四郎の「東西蝦夷日誌」を行く」(中西出版)を
2007年に出版し、2009年の「南半球舟行」を私家版で出版した優れた
随筆家でもある早川禎治さんがその後体調を崩し、家に篭もっているのは
気に懸かっていたから、この久し振りの便りには吃驚もし喜んだのである。
3・11以降1300枚もの原稿をひたすら書いていたとは驚きと同時に、喜び
でもあった。
正木さんといい、早川さんといい、なんとも素晴らしい人たちである。
早速ふたりには、この間の吉増剛造展「石狩河口/座ル ふたたび」と
「野傍の泉池(ヌプサムメム)」展のDMを同封し、近況の報告を送った。
絶不調の底から生還したふたりに励まされインスパイヤーされた自分を
確認するかのように、ひたすら万年筆を走らせたのである。
*久野志乃滞在制作展ー3月10日(土)ー15日(木)
*斎藤玄輔展ー3月20日(火)-4月1日(日)
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