雨混じり、木枯らしの吹く日。
藻岩山麓と円山麓に熊が目撃されたと、電話が来る。
昨日の夕方の事。
私の家が近いので、帰路を心配してくれたようだ。
こんなに中央区の住宅街の近くまで、熊が出没とは余りない事である。
それだけ餌不足の山中なのだろうか。
近々百余年の都市。
そこにはすぐ傍に縄文以来の原始林の面影が残る。
森と山は繋がり、南西の奥まで山並みは広がっている。
その自然環境の豊かさは、同時に野生も保つ役割をもっている。
その象徴が、森の王者熊である。
遠くスイスでは、とっくに絶滅した森の王者。
そのかっての名残が熊の木彫りとして、明治時代に北海道に伝わった。
今スイスのベルンという都市に住む磯田玲子さんが教えてくれた。
このベルンという街のシンボルが、熊である。
しかし森は伐採され、熊はもういない。
二百万近い人口の都市の住宅街に熊が出るという事は、それだけで
この札幌の保つ自然の豊かさの証しともいえる。
この時私たちはいつもあるジレンマに立つ。
野生への恐怖と豊穣のジレンマである。
野生への恐怖は排除の論理となり、野生への畏敬は自然保護の論理となる。
豊かな森が身近にある事でその美しさ豊穣さを楽しむ一方、熊に象徴される
野生への恐怖もまたあるのだ。
この二律背反の感情は、安全と秩序を原則とする都市生活者の宿命と思える。
熊を自動車と置き換えれば、その危険性の度合いは熊の比ではない。
車の方がもっと日常的な数多い危険である。
自動車という人間が作った機械という安心感と、熊という人間外の野生への
不安感の差異は、数字の危険比率以上に不安感を押し上げるのだ。
秩序・安全の管理原則が都市を支えるとすれば、野生の自然はその管理外の
力を保っているからだ。
不安の増幅の根拠には、衛生・安全・秩序の都市に対峙するものとして、
自然・野生・熊がある。
元々人間はそうした対自然との生活を原則として、生きてきた筈である。
その生活原則が、都市インフラの急速かつ膨大な発達によって喪失し
、その結果危険の質が変質して今が在る。
目にも見えず、音もなく、匂いもない、「沈黙の春」や「夢の島」のような、
公害という危険がそれである。
鮭の遡上する川は消え、計測器に白い防御服の人だけの無住の村や地域。
突如液状化し陥没する道路。
埋め立てられたかっての岸辺が揺れて倒壊する渚現象。
これらの風景の方が、熊の出没より余程恐ろしい光景ではないのか。
畏怖する野生もなく、一見変わらぬ風景が透明に病んでいるのだ。
振り返って省みれば、熊の出没に一喜一憂する街の方が、余程人間的で
豊かな世界と思えてくる。
とはいえ、帰路に熊さんにお会いしたくはありません。
くまっちゃうわ~。熊いません?
*森本めぐみ展ー10月12日(水)-30日(日)am11時ーpm7時:月曜定休。
:滞在制作展示。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1ー8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503