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2011年 08月 18日

竹本英樹展始るーdotの時代(1)

竹本英樹展「意識の素粒子」始る。
親族の帰省で遅めのお盆、お墓参りをすませ、昨日午後会場に着く。
すでに前夜遅くまでかけて、展示が完了していた。
会場一杯178枚A3程の大きさの作品が、埋め込まれている。
どれもが写真家竹本英樹の大切なショット、その集大成と思われる。
タイトルの「意識の素粒子」とは、これら一枚一枚の画素をいうのであろう。
ひとりの写真家の脳内を歩哨するかのように、見る者は会場を漂う。
ここにストーリーは多分ない。
これらはひとりの写真家の生きてきた時間に蓄積された記憶の画素である。
この展示を思い立った切っ掛けには、多分M佐藤氏とともに汗した被災地
の津波に汚れた名も知らぬ無名の人の写真を洗浄した体験があると思われる。
その経験から導き出された、自らの内に眠る記憶の画素の洗浄。
写真家として、写真を撮り続ける原点の確認。
その一瞬一瞬の撮る原点を洗い直し、あたかも泥に汚れた被災地の
無名の写真を洗浄し干したように、自らの一瞬一瞬を画素として確認する
作業のように、この展示はある。
もともと竹本英樹の写真には、淡い現実の一瞬の動きを、淡いままに
記録する独特のショットが多かった。
しかしその眼差しの奥には、現実の一瞬をリアルに見詰める極めて
怜悧な硬派の視線軸が潜んでいた。
その強靭な硬派の目線が一番強く出たのは、車椅子に座る愛する娘を
撮った時のショットである。
この写真は今回展示されていないが、この写真では淡い、時として幻想的な
いつもの画調は消え、まっすぐに被写体を見据え、思わぬ身体の不幸に耐え
る幼い娘の父を見上げる眼差しをしっかりと受け止めていた。
この作品における愛娘の存在は、多分彼の人生の素粒子そのものと思われる。
そして今回家族・肉親に繋がる被災地の多くの写真の存在に、きっと彼は
これら汚れた写真の数々を洗浄する作業を通して、あらためて再確認する
何かがあったに違いない。
その体験がもう一度一瞬、一瞬の何かを受け止め記憶を記録してきた、写真家
としての画素の再確認に向かわせたと思う。
淡い黄昏の空気、渚を漂う家族。
街を切るハイヒールの鋭い一瞬の翳。
風に滲む花の赤・黄。
走り去る猫の影。
空に伸びた梢の揺らめき。
等々。
これら一瞬の幻想的に切り取られた画素は、みな竹本英樹の
撮影映像の画素・素(もと)である。
それらをもう一度洗浄し、乾かすように、記憶を記録し確認する極めて
怜悧で剛直な、今でしか多分出来ないであろうタイミングで、この個展は
開かれたと私には思える。
かって愛する娘の身体の不幸に、真正面から立ち向かい撮影した竹本英樹の
果敢な精神視座は、今回これまでの幻想味溢れる撮影被写体を自らのドット
そのものとして再確認し再構成を試みた展示へと向かわせたと考えられる。
多くの交通手段が、画素というドットの点で構成されている現代。
液晶TVもデジタルカメラもケイタイ画面もパソコンも交通網も、すべてがドット
の点描の時代である。
そこに線や面という有機的な繋がりは、時として失われがちな時代である。
我々の記憶も記録もまた然りである。
そのドットの時代に、これらすべてのインフラが喪われた災害時、被災地の人々
はこの一枚の写真を唯一自らの生きたきた証しとして、救いと人生上の連続性・
生きてきた根拠の繋がる線を求めていたのだ。
一枚の写真が保つこのReーPublicな思いにこそ、ドットの時代からの再生の
切っ掛けが潜んでいる。
その事を果敢に竹本英樹は、写真家として挑戦したと私には思えるのだ。

*竹本英樹写真展「意識の素粒子」-8月18日(木)-9月8日(木)
 am11時ーpm7時:月曜定休。
*及川恒平コンサート「まだあたたかい悲しみー其の四」-8月21日(日)
 午後6時~予約2500円当日3000円。
*藤谷康晴展「覚醒庵」-9月13日(火)-25日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2011-08-18 12:20 | Comments(0)


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