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テンポラリー通信

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2011年 07月 20日

荒と和の芯ー弓張月(2)

火と風と水には共通性がある。
それは穏やかな優しさと凶暴な荒々しさである。
この自然の両面を、私たち日本人は遠い昔から体験して生きてきた。
日本に固有の神道に、荒ぶるものと和するものとがあるのは、この自然
の両面の反映と思える。
かって札幌の一番古い街道茨戸街道を歩いた時、その感覚を神社の屋根と
仏寺の屋根の形に感じた事があった。
荒ぶる心は、神社の上に鋭く交差する屋根に。
和する心は、仏寺のなだらかに傾斜する屋根の形に。
神道とは、自然そのもののこの両義性の本質を内包するものかも知れないと、
その時思えた。
仏教が伝来した時、日本の神道は仏教を受け止める下地に荒魂ではなく和魂で
受容したように思うのだ。
それが仏寺の屋根の形に顕われている。
そして和とは俗世界にも通じて、その所為か仏寺は巷間に多く存在する。
札幌で言えば、歓楽街薄野は同時に寺町でもある。
言葉でいえば、生臭坊主、坊主丸儲けとか俗事を顕す事が多い。
反面神主には、そうした俗の形容が見当たらない。
神社のある場処も、町の中心から少し離れた静かな環境が多い。
何故こんな事を思い出していたかと言えば、先日10年ぶりに再会した
大阪生れの滋賀の陶芸家Tの陶芸展を見たからである。
陶芸家は火を使い作品を作る。
その火のもつ荒ぶる性格が、正に人間性にも顕われている気がしたからだ。
荒ぶる業と和する業がTの性格、作品そのものに具現して感じられた。
和する業は、極めて人間関係の濃いサロンを形成し、荒ぶる業は毒を湛えて
文化状況批判として発散されていた。
しかし台風の真ん中に眼があるように、火にもその芯には澄んだ炎がある。
その澄んだ静謐な芯がない時、火も風もただただメラメラ、ごうごうと荒ぶる
のみなのだ。
風邪がまだ治らず沈滞気味の私には、この再会は少しも楽しいものでは
なかった。その毒気にあてられ疲労が増した程である。
そして分かったことは、再会の10年の歳月がなにも豊かさをもたらしていない
という事である。
山の中腹に近く今を盛りの濃い緑。
その美しい環境の画廊で出会ったのは、この10年自らが招いた来歴の
ひとつ、芯の乏しい荒・和の貧しい結果でもあったか、と思う。

*西田卓司展ー次回予定。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2011-07-20 12:55 | Comments(0)


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