10日が最終日の杉山留美子展を見に行かねばと思っていた。
ちょうど来たM佐藤さんの車に便乗して東区のギヤラリーまで行く。
会場に入ってすぐ感じた事は、作品の柔らかさであった。
日の出前の空の淡いのように、感じられた。
光を色彩に、包み込むような光彩。
変わったなあ、と思った。
昔迷宮を主題とした暗鬱な色彩構造は影を潜め、淡い界(さかい)が
優しくしかし凛とした世界を創っている。
タイトルは「here・now あるいは難思光」。
3月11日以降の深い悲しみ、思いがこのタイトルにもよく顕われている。
この色彩の柔らかさ、優しさは、そうした深い眼差しから発するものだ。
私は「難思光」というタイトルの響きから、ある詩集のタイトルを思い出して
いた。それは鮎川信夫の最後の詩集のタイトルである。
「難路行」。
その中の一章。
人が住んでいるかぎり
家が倒れることはない
人間のあぶらが
柱に梁に天井に床に耐性を与え
苦しみのベッドに血をにじませる
人くさい息が充満しているうちは
家の崩壊はないものと念じてきたのに
うなだれた囚人の目尻には
こらえきれない一雫が光っている
(「廃屋」)
この<こらえきれない一雫>の<光>のように、杉山留美子の淡いの
光彩がある。
吉本隆明は、解説でこの詩集は<赦し>の詩集だと記している。
私はその<赦し>のようなものを杉山さんの絵画にも感じていた。
勿論鮎川信夫と杉山留美子は生きた時代に相違がある。
しかし作品としてある困難を作家が深く直視した時、その難<思・路>の向こうに
<光・行>の姿で、何かが<赦し>のような優しさの内に顕われている。
詩人が<こらえきれない一雫>と言葉で顕した<光>を、画家は光彩の色彩で
顕している。
そしてその前に先立つ<うなだれた囚人の目尻>とは、正に3・11以後の
杉山留美子の立ち位置・視座を象嵌してもいると思えるのである。
色彩は仄かな赤で、赤という文字の語源太陽の保つ薄明のように見える。
その光の前で闇は微かに開き、すべてを淡い光の内に受容している。
<赦し>いう字にある赤も、言葉を色彩に変えてあるようである。
*西田卓司展ー7月末予定
*及川恒平ライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」-8月21日(日)
午後5時半~予約2500円当日3000円。
*藤谷康晴展ー8月末日~
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503