樹の翳が濃くなるように、人の翳も濃くなるのだろうか。
山田航さんが、新聞に掲載されたエッセイを持って来た。
4月13日東京新聞夕刊である。
文化面5段抜き紙面4分1の大きさだ。
顔写真入りで、タイトルは「出会えなかった友との話」。
<M君と出会ったとき、彼はもうすでにこの世にはいなかった>
という出だしで始るこの一文を読み、ふっと目頭が熱くなる。
ギヤラリーには彼の写真が置かれ、彼の作った曲がしばしば流され、
生前の彼を知る人が時折訪れた。彼の作った「撓む指は羽根」という
詩的なタイトルの曲は、私同様に生前の彼を知らないミュージシアン
によってジャズアレンジされた。
出会ったことのない人間なのに、彼を喪った悲しみを少しずつ感じる
ようになってきた。死してなお人を引きつける磁場を、彼は持っていた。
彼と私はずっとすれ違っていた。同じ年に同じ街に生まれ、すぐ近くに
いながら結局は出会えなかった。
今も私はギヤラリーに足繁く通い、オーナーがたまに語る彼の思い出話を
聞いている。その度に、彼の不在の気配を感じる。会ったことがないのに、
彼がそこにいないことが不自然に思えてくる。
私の存在を知ることなく去った彼を、私は確かに友人だと思っている。
彼の作品は遺っており、彼の魂の一部には触れることができている。
M君、来世こそ出会って、親友になろう。
山田航さんの、Mへの友情が心に沁みた。
作品を通し人の話を通して、人は人と繋がることが出来る。
見えない風が吹いている。
その風は心を伝える。目の前にいるより深く、触れて。
風土という言葉が保つ見えない風の土。
見えるものを文明社会は巨大に増幅してきたが、本来人には見えないものを
感受する魂の波長がある。
その魂の波長を結晶する力業を、芸術・文化というのではないのか。
Mの遺作「撓む指は羽根」は、そうして今も人から人へと伝わってあるからだ。
あらゆる機械的増幅も、結局はこの人の心の触れる力を擬制的に増幅させる
ものである。
今度の大災害は、その人の触れる力をより直截に露わにしてくれた気がする。
すべてを失って人間の掌(たなごころ)という心が、見えているような気がする。
今どっぷりとこの擬制的文明力に寄りかかって生きている都市カプセル内の
私たちは、この極めて真摯で直截な掌の心を見詰め、心すべきである。
擬制構造に凭(もた)れた社会・文化構造は終焉させるべき時がきている。
*「記憶と現在ーそのⅢ」展ー4月12日(火)-5月1日(日)
am11時ーpm7時:月曜定休。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503