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テンポラリー通信

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2006年 04月 03日

及川恒平さんのことー岸辺の風景(20)

ほぼ一年前の昨年3月18日「唄と歌」をテーマに初の及川恒平コンサートが
前の私の店で催された。それが及川さんとの初めての出会いだった。その後
6月の「絵と音」以来8回ほど札幌でお会いしている。この間歌人糸田ともよさ
んと会い、新たな唄が生まれ及川恒平の世界が広がり深まりつつある。美唄
生まれの釧路育ちと聞く及川さんは、大学時代を東京で過ごしすぐ六文銭の
小室等さん達とフオークソングのグループでスターとなっていった。「面影橋」
や「出発の唄」の作詞で有名である。私はその頃グレングールドのバッハとジ
ヤズに嵌っていてフオークとはあまり縁が無かった。従って最初お会いした時も
及川恒平という名前には無知だった。しかし頂いて初めて聞いた「緑の蝉」のCD
は心に沁みいつも朝店で流すのが恒例となっていた。今またこの仮事務所で熊
谷透さんが座右の音のように毎日聞いている。そしてこのCDが10年の音楽活
動中止のあと再開された第一作と知りまたその間の事情を初めて先日聞きなに
か不思議な共通の根のようなものを感じている。音楽活動を中止する動機は多
分早くからスターとなっていたから業界の商業主義と自身の創作とのギヤップだ
ろうと思われる。その頃<首から上で歌っていて決して首から下の音で歌わなか
った>と言う。逆に音楽活動を中止していた10年間はテニスのインストラクター
として首から上は意識せず喉も気にせず声を張上げ首から下を使っていたとい
う。天性の美声からくる商品性を自らの声として取り戻すその復帰する第一作が
「緑の蝉」だったのだ。喉は身体の全体性の内に解放され声もある強制から解放
されている。現代が有名無名を問わず私たちに与える増幅装置のような部分の
強化。それは時として身体という五体五感を一感一体に分離し分断するものだ。
及川さんの場合は早くしてスターとなり商業主義という増幅装置によって喉と声
という一体一感が身体という全体性から分断され宙に浮く時があったのだろうと
思う。その事がマラソンを通しテニスを通しもう一度喉を声を自分自身に回帰させ
回復し唄が生まれる。そんなドラマがCD「緑の蝉」にはあった。熊谷さんの気功
の持つ身体そのものの揺らぎに収斂していく波長がどこか及川さんの「緑の蝉」
と同じように感じられたのはその一部から全体への解放のリズム故かもしれない。
そのリズム、律動はあるがままの自分という身体性を回復させ解放していく身体
のルネッサンスのようにあって札幌ならさっぽろという自然の個々の身体性にも
繋がつて私には感じられる。グローバリズムという政治経済の部分増幅装置が
地球という自然の身体を歪(いびつ)にしていくように、ひとつの街角ひとうの声に
もその闘いはある。そんな内なるラデイカリズムが僕らの共通の根っこにあるの
かもしれない。

by kakiten | 2006-04-03 15:00 | Comments(0)


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