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テンポラリー通信

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2011年 04月 19日

翳濃くー風の土(14)

昨日の強風とは違って、陽射しが降る今日の朝。
裸木の幹と枝の影が路面に濃い。
同じ裸木の影だが、晩秋のそれとは、陽射しの強さが違う気がする。
残雪の間から微かな緑の草叢が見えて、風も心なしか甘く感じる。
昨日一昨日と、春一番のような強風が吹き荒れ寒かったから、なおの事
今朝の春を感じていた。
「記憶と現在ーそのⅢ」展一週目の日曜日は切れ目なく人が訪れ、
久し振りに人に酔った気がした。
就職したばかりのMさんが、被災地に置いて行かれ町にいる牛たちを
TVで見て、なにか牛が伸び伸びしているみたいと言っていた。
牛舎に繋がれ搾乳の為に飼われていた牛たちが、たしかにのんびり草を
食んでいるように見える。
井上ひさしの小説に東北を舞台にした小説があり、その中で東京は牛乳も
ない、食料もない、電気もない。だから東北の国は独立国を創るという話だ
ったという記憶がある。
今度の福島県の原発事故ではっきりした事だが、この電力も東京電力で
あって決して東北電力ではなかったのだ。
そしてこの牛たちの乳も大半はこの首都圏の為に費やされているのだろう。
きっと野菜や他の生産物もそうだろう。
すると牛たちだけが牛舎に飼われているのではなく、構造として東北自体が
首都圏の牛舎のようにあったことに気づく。
中央ー地方のこの関係性は、消費人口の経済的多寡・強弱に拠る。
煎じ詰めればお金の量の厚さなのだ。
生産地(地方)-消費地(都会)という構造が、地方ー中央の社会的構造
ともなっている。
物を作る行為と消費する行為が見事に二分化されて今の社会構造がある。
消費する行為を主とする都会では、電気・石油・食料を大量に消費し、
消費の量が富の証のようになる。
その結果人はきりきりと先鋭な大量物流の流れに生きて、人としての
個別性はただただ磨り減るような日常の流れにある。
メトロポリスの群集の大きな流れに漂流する、孤独なケイタイ難民のように
小さなケイタイボートで呟き(ツゥイッター)を発信している。
そして歩行は、遅い事は罪悪でもあるかのように、いつも早足である。
この速度は物流の<もっと多く、もっと早く、もっと遠く、もっと豊かに>
というEUの合言葉(シッコ・マンスホルト博士)に象徴される経済リズム
のそれでもあるだろう。
E・F・シューマッハは「政治の中心は経済であるし、経済の中心は技術
である。・・私は技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間の真の必要物
に立ち返らせることができると信じている。それは人間の背丈に合わせる方向
である。人間は小さいものである。だからこそ小さいことはすばらしいのである。」
(「スモール イズ ビューテイフル」}
と、この技術発展の巨大増幅の方向性に<人間の背丈>という方向性を
経済学の基底から対峙するように提示している。
この1973年に出版された本は今少しも40年前の書物という感じがしない。
むしろ時代の方が、この本に近付いているのだ。
優れた芸術作品がそうであるように、優れた経済学もそうした作品と同じ
光彩を放つ。
物流の保つ<モノの背丈>は、技術の進歩によって飛躍的に増幅し
巨大化した。
例えば36階のタワーマンシヨンに住み、勝ち組みとかいう類の増幅である。
ここには<人間の背丈>を越えた力が働いてその事が快適となる。
と言うのは、計画停電が行なわれて一番困ったからである。
すべてが電化されていて、この時すべてが支障を来たしたからである。
都市という機能もそうである。この高層マンシヨンと同じ運命にある。
これらはすべてある限られた土地に集中した過剰人口に対応した技術に
拠って可能だったのだ。
従って「技術は経済を生み、経済は政治を動かす」都市構造が出来る。
この基本軸の沿って本来は<モノの背丈>を価値観の中心に置くはず
のない<人間の背丈>から発する文化・芸術の基本軸が、今やぶれた
まま、この<技術・経済・政治>に寄り添っている現状がある。
大量輸送・大量消費・大量伝達の合言葉・
<もっと多く、もっと遠く、もっと早く、もっと豊かに>に合わせた
都市構造の増殖に沿ってアートと称する文化運動が盛んだからである。
例えば大規模地下通路が出来れば、そこに最新テクノロジーの電気技術
を駆使してアート空間の創造などと言う。
さらに芸術はビジネスを謳って、国際展を企む。
さらにその為の下支えなどと追従するプレのまたプレが加わる。
これはみな<人間の背丈>を基本軸には置いていない。
<モノの背丈>都市構造に合わせている。
この<モノの背丈>に合わせたメトロポリスとローカルの関係性は
なにも首都圏と福島県だけの関係性ではない。
同じ関係性構造が道都圏と地方にもあるのだ。
それは何も個人的な事から生まれる関係性ではなく、人間がその背丈を
喪ったモノの背丈の関係性から生まれるのである。
札幌もまたミニ東京圏である。
北海道の総人口の半分近くがこの札幌圏に集中している。
石狩地方ではない。あくまで札幌一都市圏である。
そこに人口が集中し、技術が集中し、経済が集中し、政治が集中する。
そして大規模地下通路が出来、新幹線を招致し、<もっと・・>が増幅する。
この<もっと>派をシューマッハは猛進派と仮に名付けている。
そしてこれに対峙する考え方をこれも仮にふるさと派と呼んでいる。
そしてさらに言う。

 だれでも、この二つのグループ間の戦いに対して旗幟を鮮明にしなければ
 ならないだろう。
              (「人間の顔をもった技術」)

私もこのシューマッハの言葉に従い、この猛進派たるアートという名の
文化運動に対し旗印を明白にする者である。
彼は経済学の立場から深くその基底に現実を見詰めた。
私たちもまた、それぞれの分野においてその基底において今こそ
ラデイカルにその現実を見詰めるべきである。
その事こそが、それぞれのテンポラリーな状況を超えて
conーtemporaryに至る同時代の行為であると信じている。

*「記憶と現在ーそのⅢ」展ー4月12日(火)ー5月1日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペースー札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2011-04-19 14:31 | Comments(0)


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