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テンポラリー通信

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2011年 04月 09日

愛・誠実・優しさー風の土(7)

 愛や誠実、優しさはこれまで、安寧の中の余裕としてそれなりに演じられて
 きたのかもしれない。けれども、見たこともないカオスの中にいまとつぜんに
 放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるの
 か。・・・すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の
 崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかか 
 わることだろう。
          (辺見庸「非情無比にして荘厳なもの」-水の透視画法ー)

この震災の後に書かれた辺見庸の言葉が、いつも心の奥底で響いていた。
チャリテイーイヴェントの案内や義捐金募集の案内が多く来る度に、それは
それとして心の奥底にうごめくもの<モラルの根っこにかかわること>(同上)
がどうしてもあったのである。
街が消え故郷が消えるような<カオス>を現実のものとして見るたびに、
こちら側の安全カプセル内にいる自分を<安寧の中の余裕>として意識
せざるを得ないからだ。
特に今札幌で行なわれている「美術館が消える9日間ーアートから出て、
アートに出よ」と、札幌国際ビエンナーレのプレを謳う美術館での展覧会の
一連の動きが腹立たしい。
さらのこの企画の考え方に「芸術はビジネス」というテーマがあり、そこで
経済人とのフォーラムも企画されていたのだが、今度の東日本大震災の
影響で急遽アーテイストによるチャリテイーイヴェントに切り換えたと報道
され、なおの事その疑問が深くなったのだ。
ひとつの街や故郷が現実に消滅するかも知れないこのカオスの中で、
美術館を消すなどと粋がっている場合かと、いうのが本音の気持である。
例え今度の事が天災・人災の不意の事だったとしても、普段からこの
社会の現実を見据えて表現者は闘って表現しているのではないのかと
いう疑問である。
急遽作品を持ち寄り売って金銭に換えそれで芸術家は事足れりなのか。
もっと本質的に問う事が内部にあるのではないか。
チャリテイーそのものを否定する気は毛頭もないのだが、最近やたらと
そうした案内が芸術関係からくると、それはそれとしてより自分自身の奥底
に動いているものと乖離するのである。
義捐金は自分の出来得る範囲で黙って行なえば良い。
その事を人に呼びかける運動として極めて楽天的に語られる事に不快を
感じるのだ。その事を示す過日新聞コラムの一文がある。

 今、震災後の支援に世界中の芸術家たちが多彩な支援活動を展開している。
 震災復興に大きな貢献を行なうのは、芸術文化の活力である。

      (「芸術の説得」ー武邑光裕)

ここに見られるすでに<震災後><震災復興>を前提とした芸術家の
支援・貢献という美辞麗句には大きな違和を感じるのだ。
まだ現実の真っ只中である。
この人は札幌市の地下大規模通路の文化活動や、前述の国際ビエンナーレの
理論的リーダーのひとりでもある。
カナダの経済学者ガルブレイスがいう「芸術家自身が芸術の社会的役割や経済
との関係を自覚し、自分の仕事を私的な表現世界に閉じ込めることなく、能動的
かつ社会的に還元する意識を持つこと」を根拠に芸術の社会への貢献を説い
ている。
しかし私には同じ経済学者でも、ドイツのE・F・シューマッハの説く人間中心の
経済学「スモール イズ ビューテイフル」の方が余程説得力がある。
なぜならシューマッハは経済学自体の問題として本質を問うているからである。
芸術に本質を振り替えてはいないのだ。
従ってガルブレイスの言葉は芸術家をそのまま経済学者と置き換えて
読み返した方が良いのである。

愛や誠実、やさしさとは人間の本質に直結する命題である。

 ・・・あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、
   かえってどこまでも深玄である。
   いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。
                  (辺見庸・同上)

ボランテイアもチャリテイーもこの<愛や誠実、やさしさ>という深玄な命題から
発している。
そこにジャンルとしての芸術・文化を密輸入させて考えるものではない。
経済学は経済学として、芸術は芸術としてそれぞれの本質において<深玄>
であるべきなのだ。
その事をシューマッハはあくまで経済学の立場で<超経済学>を説いている。
それは人間と環境を取り扱う部分からそれは成り、人間の研究と自然の研究が
不可欠と説いている。
決して芸術の社会的役割などと他の分野に振り替えてはいないのだ。
他方芸術家自身が社会的役割などと自らの立場を忘れて、芸術はビジネス
などと錯覚されても困惑する以外何物も生まないのである。
今回の大災害は我々の根源に関わるところに触れてきている。
その事実を芸術文化はより<深玄>に深化すべき時なのだ。

 安らかな日々はきっとくる。
 わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。
 かんがえなくてはならない。
                   (辺見庸 同上最終章)

*「記憶と現在ーそのⅡ」展ー4月10日(日)まで。
 am11時^pm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503


        

by kakiten | 2011-04-09 13:31 | Comments(2)
Commented by ノガミ at 2011-04-09 18:43
深いところから発してくる個人個人の思いは、やはり深いところに潜らなければ遂げられない。深く潜れて初めて分野の壁は取り払われると、そう信じます。
科学や経済の恩恵を受けつつ、環境へも配慮して暮らしたい。そんな「いいとこ取り」のジレンマを抱えながら、どうして「芸術家」を名乗れるのか、葛藤中。

Commented by テンポラリー at 2011-04-10 12:46
ノガミさん>ジレンマは必然ですね。対極を抱えて生きるから
深い磁場が生まれます。その磁場の深さ強さが作品を生む
母胎です。託するなにかを祈りのように結晶して存在させ得る事。
あなたの作品「i・nu」と「鳥」のような・・ですよ。


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