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テンポラリー通信

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2011年 03月 24日

「橋上の人」ーland・fall(25)

ふと思い出して鮎川信夫の「橋上の人」を読み返した。
1947年戦後の廃墟の中で書かれた詩である。

 橋上の人よ、
 あなたの内にも、
 あなたの外にも夜がきた。
 生と死の影が重なり、
 生ける死者たちが空中を歩きまわる夜がきた。
 あなたの内にも、
 あなたの外にも灯がともる。
                   (Ⅷ)
 「ポケットのマッチひとつにだって
 ちぎれたボタンの穴にだって
 いつも個人的なわけがあるのだ」
                    (Ⅳ)
 たったひとつの死にも
 多くの時と多くの場所と
 さらに多くのものがかかっている
                    (「父の死」)

久し振りに個人的な場所を歩いた後だけに、これらの詩行が心に沁みる。
灯の量も人の量も物の量も建物の大きさも、すべてが私の幼少期とは
比較にならない程豊かな街である。
巨大な電力、石油燃料が集中しているこの場所では、昼人口と夜人口に
大きな差異がある。
いわゆるドーナツ化現象である。
この街角は人も物と同じように量的に密集するが、個人の顔は消えている。
連日のTV画面に見られる被災地は、このインフラが破壊され電力・石油力
が喪失して街角は消滅した光景である。だがそこには人の顔が見えている。
ここでは<たったひとつの>ものに<多くのものがかかっている>光景がある。
都市という巨大インフラカプセルが破断した時、個が顕われる。
逆に衛生・安全な巨大カプセル内では個が見えない。
戦後破壊と廃墟の中で書かれた鮎川信夫の詩が心に沁みるのは、
そうした経験を今どこか追体験しつつあるからではないか。
ひとつの優れた芸術作品は、いつもある個人的体験を根として生まれる。
だからその<個人的なわけ>を軽んじてはならない。
あの見えない廃墟の準備をしていたパルコ別館ビル内で、原子炉の中の
放射線のように蠢(うごめ)いていた作品たちには、多分個々の作家の
<個人的なわけ>の熱量がある。
その見えない灯たちが、あの場所の不毛を救っている。

 たったひとつの死にも
 多くの時と多くの場所と
 さらに多くのものがかかっている

今となれば中途半端な5階建ての地下1階だけのあの小さなビルにさえ、
<多くの時と多くの場所とさらに多くのものがかかっている>。
このビルの北側には、かって少年たちの遊び場だった仲通りがある。
今はシャワー通りとかいう奇妙奇天烈な名前が冠されている。
路地裏が消え裏通りが物流の搬入口と化して、子供も人も消えたのだ。
時代は変わり街も変わる。
その事自体を回顧で否定する気は毛頭ない。
ただどんな場所でも<個人的なわけ>がある。
表現を志す人には、その<個人的なわけ>が自らの表現の根にも必ず在る事を
思うのだ。
そしてその個の根をパルコパックカプセル内で拡散し、瓦解させはならぬ。

*テンポラリースペースアーカイブス「記憶と現在」展ー3月25日(金)まで。
 am11時ーpm7時
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみその2」-3月27日(日)
 午後4時~予約2500円・当日3000円。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

 
 

by kakiten | 2011-03-24 12:44 | Comments(0)


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