一枚の写真から記憶の根が喚起されるように、
自然の風景にも都市の風景にも
記憶の歯根のようなものが埋もれている事がある。
すぐれた地相には急所というものがある・・・そこに立って四方を眺め渡すと
地相の趣意が一気に析出し、風景として結晶する。
(中村良夫「風景学実践篇」)
人間の造った都市風景の中にも、この<風景の結晶>があったのだ。
Mさんが感動した雑誌の一枚の写真はまさにそうした風景の一葉でもあった。
記憶の歯根が埋もれている自分の暮らした風景である。
こうした風景をかって人は故郷と呼んだ。
しかし今私たちの多くは、この<風景の結晶>を喪失して、
綿のように明白で曖昧な、柔らかい独裁の風景に囲まれている。
デジタルハイビジヨンのような明瞭な風景。
そこはひょっとして埋め立てられた川の上。谷の底。
地相は消去され平らな分譲地となる。
風景は結晶せず析出する何物もない。
都市と自然から風景の根を喪った私たちは、かってのボートピープルの
ように故郷を喪い漂流を繰り返す。
ケイタイやパソコンという小さなボートに乗り、行き先の見えない発信を送る。
私たちが日常に見る風景とは、そうした漂流者の風景ではないのか。
川俣正の「テトラハウス326」展を展示していて感じていたのは、この作家の
力業が一時書き割りの都市風景に破調をもたらし、そこの一角が熱く渦巻いて
疼くような歯根を保っていた事である。
それは記憶の風景の歯根のように今もある。
自然の地相と同じように、人もまた風景を析出し結晶させる事が可能なのだ。
かってそれは故里として故郷として顕現していたが、川俣正はそれをある種の
装置として顕在化させたのだと思う。
芸術家がその最も傑出させる力を発揮するのは、こうした日常風景に対峙する
非日常を顕在化させ得る時である。
森を伐採し、山を削り、谷を埋め、海を埋め、川を消し市街地化する都市の構造
は今後も変わる事無く世界中で続く事だろう。
この<風景の結晶>を崩壊させる世界に、人は本質的に何を為す事が
可能なのか。
風景を喪った心のボートピープルとなって永遠に漂流する運命なのか。
自然も社会も薄い液晶TVの画面のように明瞭だが不透明な、柔らかい綿の
ような独裁の時代に、私たちは根底で対峙する歯根の疼きを獲得出来得るか。
今は駐車場の平坦な空き地・空白地となったあのテトラハウスの記憶の根は、
そう今も問い掛けて止まないのだ。
*川俣正アーカイブス「テトラハウス326」展ー1月30日(日)まで。
am11時ーpm7時。
*高臣大介ガラス展「雪調(ゆきしらべ)」-2月1日(火)-6日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503