穏やかな日曜日。気温も上がり青空が広がる。
こんな日は少し滑りながらも、凍った路面を踏みしめ歩く。
地下箱の閉じた空間にいるより、心も開く。
誰でも良かったと言って無差別に人を刺した若者の惨劇がニュースに流れる。
閉じた自意識をさらに取りまく遮断された見えない壁。
それを壊したかったのだろうか。
都会にはそうした壁がある。
他者と関わる、外界と関わる回路が分別されてある。
分別された果てのうめくような、閉じた行為。
誰もが大なり小なりそう感じていながら、どこかでやり繰りをしている。
閉じたまま鬱病になったり、発作的にこのような外界の壁に八つ当たりする。
分別の際(きわ)自分以外の他者が存在しない遮断意識。
個が根付けない社会とは何か。
植物が土壌に根付くように、心の根毛を伸ばし葉先を広げる孤独な
ひとりひとりの営為も存在する。
それぞれの生きている環境の内で粘り強く、したたかに営まれているそんな
行為の形に出会う時がある。
美術行為やあらゆる創作行為には、そうした人と人の間を回復させてくれる
回路がある。
間(あいだ)を無くして孤立するから、人は非人間的となる。
人間という言葉の意味する所である。
この<間(あいだ)>を諫早湾のギロチンのように遮断すれば、そこには
干拓された心の乾燥地が広がるのだ。
その結果は一方の片側利害だけしか生まない。
遮断という行為は諫早湾だけに留まらず、同じ結果となる。
勝ち負けはゲームやスポーツの世界だけではなく、
生活次元の主軸ともなっている。
<間(あいだ)>とはもっとナイーブで豊かな世界だった筈である。
人間の五感の背後に在る粘膜の存在のように、欠かせない中間地帯なのだ。
<間(あいだ)>の存在が希薄になれば、遮断が強まる。
地球と宇宙の間には成層圏があり、紫外線を遮り保護する。
これも地球の粘膜のような<間(あいだ)>の存在である。
人と人の間にも本来的には、社会という間(あいだ)が在る。
これが希薄になれば、露骨な遮断が相互に自己防御的に働く。
その粘膜の強度を高めるものが、体のビタミン・ミネラル的なものなら、
文化・芸術の存在もそこに拠る。
一方に偏るものではない。間(あいだ)に拠るのだ。
勝ち組みと呼ばれる産業経済軸に偏ったものに、真の文化・芸術はない。
遠く長い歴史を有する瀬戸内海の港町で、船大工を学ぶ野上裕之さんの
その生活の中から生まれた個的営為、その作品の到着が遅れると連絡がある。
ぎりぎり初日には間に合うかも知れない。
故郷を遠く離れた野上さんの孤独な土壌創りに、私たちは彼の地と此処の地の
遮断ではない如何なる<間(あいだ)>を見るのだろうか。
*野上裕之展「鳥を放つ」-12月21日(火)-1月16日(日)
am11時ーpm7時:月曜・元日休廊。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503