テンポラリー通信

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2010年 12月 04日

歩行という彫刻ー夢の系譜(9)

今日も大荒れ。風が強い。
今朝も地下鉄に乗る。
朝のラッシュに揉まれていると、人の動きが自己中心の閉鎖か、
直線的な速歩のどちらかにあると思える。
共通するものは不干渉という他者の排除のような、見えない城壁だ。
個というよりこの感覚はエゴイズムに近い。
歩行には、本来彫刻のような刻む行為がある。
4年前の冬、札幌中を歩き今の場所を探索していた時、
私は孤独ではあったが歩行の一足一足に、外界と関わる刻む足の
感覚があった。
AからBへと移動する直線の行為ではなく、AからBへと刻む行為であった。
この相違は、多分刻む時間の位相の違いによる。
私がひとり歩行していた時間は、個的な行為である。
地下鉄に乗り足早に歩行する時間は、より社会的な制約に刻まれた時間
である。
後者の時間は歩行も移動の為のただの足に過ぎない。
歩き深まる時を刻む事はないからだ。

岡部亮さんが新しい彫刻作品を持って来る。
種子と題されたおたまじゃくしのような、細長い種子の木彫である。
今度の作品は豆の莢と比べると、種子のもつ勢いが出ている。
いいねえ、と思わず手に取り呟いた。
豆の莢の作品と上下に並べて置くと、ある充実した空間が生まれる。
彫刻家は、こうして一鑿(のみ)、一鑿(のみ)形にして歩行を刻む。
足だけが歩行ではない。
心と手足が一体となって外界との回路を形づくる。
私の歩行は形そのものを生む訳ではないが、彫刻家はこうして形象化し
心の歩行を存在させる。
その違いは大きいのだが、心の歩行と同じようにそこから感じとる事は
可能なのだ。
その共感こそが、作り手と受けてのフールドである。
このフイールドという場は、時にギヤラリーという名を冠してある。
それは時にであって、決して唯一というものではない。

槐の木の塊が、鑿の一刻一刻によってある形象を形づくる。
その行為は個の歩行の深まりに似ている。
社会的に直接的な有効性を保っている訳ではない。
しかし他者と関わり、外界と関わる固有の回路の創出という点で、
その回路の向こうは新鮮な風が吹き、外界の息吹きに満たされている。

*岡部亮展withシミー書房「詩の本と彫刻」-11月30日(火)-12月12日(日)
 am11時ーpm7時・月曜定休。
*野上裕之彫刻展ー12月21日(火)-1月16日(日)
 :元旦休廊。2,3日開廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1ー8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-12-04 12:25 | Comments(0)


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