今日も大荒れ。風が強い。
今朝も地下鉄に乗る。
朝のラッシュに揉まれていると、人の動きが自己中心の閉鎖か、
直線的な速歩のどちらかにあると思える。
共通するものは不干渉という他者の排除のような、見えない城壁だ。
個というよりこの感覚はエゴイズムに近い。
歩行には、本来彫刻のような刻む行為がある。
4年前の冬、札幌中を歩き今の場所を探索していた時、
私は孤独ではあったが歩行の一足一足に、外界と関わる刻む足の
感覚があった。
AからBへと移動する直線の行為ではなく、AからBへと刻む行為であった。
この相違は、多分刻む時間の位相の違いによる。
私がひとり歩行していた時間は、個的な行為である。
地下鉄に乗り足早に歩行する時間は、より社会的な制約に刻まれた時間
である。
後者の時間は歩行も移動の為のただの足に過ぎない。
歩き深まる時を刻む事はないからだ。
岡部亮さんが新しい彫刻作品を持って来る。
種子と題されたおたまじゃくしのような、細長い種子の木彫である。
今度の作品は豆の莢と比べると、種子のもつ勢いが出ている。
いいねえ、と思わず手に取り呟いた。
豆の莢の作品と上下に並べて置くと、ある充実した空間が生まれる。
彫刻家は、こうして一鑿(のみ)、一鑿(のみ)形にして歩行を刻む。
足だけが歩行ではない。
心と手足が一体となって外界との回路を形づくる。
私の歩行は形そのものを生む訳ではないが、彫刻家はこうして形象化し
心の歩行を存在させる。
その違いは大きいのだが、心の歩行と同じようにそこから感じとる事は
可能なのだ。
その共感こそが、作り手と受けてのフールドである。
このフイールドという場は、時にギヤラリーという名を冠してある。
それは時にであって、決して唯一というものではない。
槐の木の塊が、鑿の一刻一刻によってある形象を形づくる。
その行為は個の歩行の深まりに似ている。
社会的に直接的な有効性を保っている訳ではない。
しかし他者と関わり、外界と関わる固有の回路の創出という点で、
その回路の向こうは新鮮な風が吹き、外界の息吹きに満たされている。
*岡部亮展withシミー書房「詩の本と彫刻」-11月30日(火)-12月12日(日)
am11時ーpm7時・月曜定休。
*野上裕之彫刻展ー12月21日(火)-1月16日(日)
:元旦休廊。2,3日開廊。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1ー8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503