大荒れの日。風で傘が飛ぶ。
地下鉄に乗る。
円山から大通り駅で乗り換え。多くの人が乗っている。
人と人の間は密なのだが、それぞれの意識がその間を遮断している。
ケイタイを覗き込む人、目を瞑り耳の音楽に聴き入る人、宙を見ている人、
時に大声で仲間内だけの話に耽る人。
いつも自転車に乗っているので、ラッシュ時の地下鉄の人の密度が一段と
濃く感じられるのだが、同時に自分以外の他を遮断する意識も強く感じるのだ。
都市とは、ある意味遮断の意識構造でもある。
内向きに閉じる構造である。
人と人の物理的距離は濃いのだが、その濃い分逆に閉じていくのだ。
歩行や自転車は人の密度が薄いが、その分外界は開かれる。
少なくとも目の届く視界の範囲で、世界は関係性を保って存在する。
そこに、遮断はない。
地下鉄のような閉じられた箱の中では、人は自己防御的に世界を閉じて、
本能的に内なる自由を守ろうとするのだろうか。
世界との関わりから自分を位置付ける心の自由を喪った時、そこから
身を守るかのように、意識はさらに外界を遮断するのである。
トータルに世界を見る外への視座が喪われたこの感覚は、私にはまるで
自らが魚の切り身のようにも思えるのだ。
魚体という全身性から魚肉があるのではなく、すでに遮断された切り身に
全存在が陥落する不安。
その無意識の内なる不安が、さらに外界との関係性を遮断させている。
この遮断意識は多分に本能的自己防御の所為なのだ。
量数の多寡を競う価値観が支配する都市構造社会では、人はどこかで
自己防御の鎧を纏い、個を守る遮断意識に囚われるのではないのか。
この孤立する個を解き放つ全体性の回復とは、箱の外を繰り込む強靭な
精神の営為が必要である。
久し振りの地下鉄通勤の独断的偏見の考察。
囲繞する箱を、自らの函として再生する闘い。
豆の莢(さや)の彫刻とは、自らの函の再生でもある・・・。
そうだろう、岡部亮さん・・・。
*岡部亮展withシミー書房「詩の本と彫刻」-11月30日(火)-12月12日(日)
am11時ーpm7時:月曜定休。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503