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テンポラリー通信

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2010年 12月 03日

地下鉄考察ー夢の系譜(8)

大荒れの日。風で傘が飛ぶ。
地下鉄に乗る。
円山から大通り駅で乗り換え。多くの人が乗っている。
人と人の間は密なのだが、それぞれの意識がその間を遮断している。
ケイタイを覗き込む人、目を瞑り耳の音楽に聴き入る人、宙を見ている人、
時に大声で仲間内だけの話に耽る人。
いつも自転車に乗っているので、ラッシュ時の地下鉄の人の密度が一段と
濃く感じられるのだが、同時に自分以外の他を遮断する意識も強く感じるのだ。
都市とは、ある意味遮断の意識構造でもある。
内向きに閉じる構造である。
人と人の物理的距離は濃いのだが、その濃い分逆に閉じていくのだ。
歩行や自転車は人の密度が薄いが、その分外界は開かれる。
少なくとも目の届く視界の範囲で、世界は関係性を保って存在する。
そこに、遮断はない。
地下鉄のような閉じられた箱の中では、人は自己防御的に世界を閉じて、
本能的に内なる自由を守ろうとするのだろうか。
世界との関わりから自分を位置付ける心の自由を喪った時、そこから
身を守るかのように、意識はさらに外界を遮断するのである。
トータルに世界を見る外への視座が喪われたこの感覚は、私にはまるで
自らが魚の切り身のようにも思えるのだ。
魚体という全身性から魚肉があるのではなく、すでに遮断された切り身に
全存在が陥落する不安。
その無意識の内なる不安が、さらに外界との関係性を遮断させている。
この遮断意識は多分に本能的自己防御の所為なのだ。
量数の多寡を競う価値観が支配する都市構造社会では、人はどこかで
自己防御の鎧を纏い、個を守る遮断意識に囚われるのではないのか。
この孤立する個を解き放つ全体性の回復とは、箱の外を繰り込む強靭な
精神の営為が必要である。

久し振りの地下鉄通勤の独断的偏見の考察。

囲繞する箱を、自らの函として再生する闘い。
豆の莢(さや)の彫刻とは、自らの函の再生でもある・・・。

そうだろう、岡部亮さん・・・。

*岡部亮展withシミー書房「詩の本と彫刻」-11月30日(火)-12月12日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2010-12-03 13:52 | Comments(0)


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