故西村英樹さんの遺した「夢のサムライ」を読み、その「あとがき」の熱い
思いに触れていると、どうしても生前会った時の不完全燃焼が、
今更ながら悔やまれる気持が残るのだ。
2度目の最後に会ったのは、これも故人となった忠海光朔さんの仔羊亭
で偶然だった記憶がある。
この時初めて私は西村さんが利尻島の出身である事を知った。
しかし私はまだその時も、彼の「夢のサムライ」の存在を知らなかった。
もし読んだ後彼と会う事ができたなら、その時のふたりの話はまた違ったもの
になっていたに違いない。今あらためてそう思うのである。
歴史は、過去を振り返るためだけにあるのではない。
車のバックミラーにたとえてみるとわかりやすい。
前に進むためにこそ、バックミラーはあるのだ。
歴史は、fromとtoを内包している。
過去から未来に向かってたえず動いている。
その悠久の流れのど真ん中に現在(いま)がある。
故郷を遠く離れてこの地に根を下ろしていった開拓者たちは、
いったいなにを糧に厳しい自然と闘い、なににつき動かされて
がんばり抜いて生きてきたのだろう。
「いまは、つらい。貧しい。苦しい。それを背負って、とにかく・・・」
というただひとつの思いではなかったか。
原野に咲いた、夢である。
(「夢のサムライーあとがき」から)
西村英樹はこの本を遺す事で、私にとって彼はひとつの<歴史>ともなり、
彼のいう<バックミラー>ともなって、今存在するのだ。
<fromとtoを内包している>歴史の夢とその挫折について、
我々の現在(いま)に即して、熱く語りたかった。
人は何故夢を抱き、生きるのか。
夢幻(ゆめ・まぼろし)という振り返る夢ではなく、
現実に生きる糧として、何故そこに夢を抱き、闘うのか。
それが一度ゆめ・まぼろし(夢幻)と挫折した時、
さらなる夢の継続は可能なのか。
今に映像として残る1945年を境とした少年少女の瞳の明と暗。
そして百年の時間差を超えるなかがわ・つかさと、村橋久成の北の大地に
描いた同じ23歳の歴史の夢の後先。
その<fromとto>について、我々の現在(いま)はまだまだ語り尽くせぬ
ものがある。そう思うのである。
歴史は海のようだ。歴史という海は、あらゆる文明や国や社会を浮かべて
たゆたっている。すべての民族や文化や伝説をつないで、地球をまるごと
くるんでいる。それは、圧倒的な質量である。生まれて、生きて、みずからの
生命を全うした無数の魂の累積である。
(同上)
歴史の海が無数の魂の累積ならば、彼の魂もまた彼の故郷利尻島の
ように、海の荒野のど真ん中に<fromとto>という歴史を発して進む、
夢のバックミラーの花を咲かしている。
*一原有徳追悼展ー11月26日(金)まで。
*岡部亮展withシミー書房「詩の本と彫刻」-11月30日(火)-12月12日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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