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テンポラリー通信

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2010年 11月 25日

夢のあとさきー夢の系譜(3)

1998年に出版された西村英樹著「夢のサムライ」(北海道出版企画センター)
を読み返していた。
西村さんとは2度ほど会っただけだったが、その後亡くなられたと聞いた。
利尻島出身の優れた編集者だった。
彼が晩年渾身の調査・研究をして著わした著作が、北海道にビールの始まり
をつくった薩摩人村橋久成の生涯の記録「夢のサムライ」である。
この本は次のようなプロローグの記述から始る。

 明治25年(1892)9月25日。
 神戸市葺合村六軒道。
 場末の道である。鳴きしきる蝉のこえに麻痺したまま、あたりの風景は
 塗り固められた一枚の絵のように微動だにしない。
 陽炎のように、路上にたちこめているのは、とんぼの群れだった。
 そのむこうに、倒れて伏す男の姿があった。

この行き倒れで発見された男が、村橋久成である。
23歳で薩摩藩からイギリスに留学し後に函館戦争で軍監として指揮をとり、
旧幕府軍に降伏を勧告、戦争を終結に導くキーマンとなり、さらに維新後は
開拓使に入り、札幌に麦酒醸造所を開業させた人だった。
その5年後突如職を辞し、その10年後に神戸の路上で死んでいるのが
発見されるのである。
この忘れられたビールの恩人の生涯を、西村さんは徹底的に調べ、
その生涯を明らかにしようとした。
村橋久成の功績が世に認められるようになったのも、この西村さんの
力が大きいのである。
村橋久成はルイス・ベーマーの札幌にできたポップ園を基盤にして
札幌ビールを成功させ、その生産が軌道に乗った明治14年5月に
突如職を辞すのである。
その間の事情を西村さんは次のように書いている。

 麦酒醸造所建設のころの村橋のなりふりかまわぬ、ほとばしるような
 情熱はとうに燃えつきていた。
 気がついたとき、周囲には維新で成りあがった政治家や経済人、そして
 官僚たちの野心と利権が渦巻いていた。開拓使の廃止の方向が明らかに
 なるにつれて、・・・村橋にとってはなによりも、開拓使の廃止そのものが
 ゆるされなかった。
 いまやっと芽吹いた新しい産業の芽を、なぜ摘みとり放棄するのか。
 こころざしは、どこへいってしまったのか。・・なんのための開拓使だった
 のか。
                    (第3章「開拓使の挫折」166頁から)

その後一切の消息を絶った村橋久成の行方を追いながら、この本は
優れた薩摩人の夢の後先を実証していく。
2003年に死去した西村秀樹は、多分この若きサムライの夢の跡を
追いかけながら、自らの利尻島で生まれ北の大地に生きる事の意味をも
探っていたような気がするのだ。
この本の「あとがき」には次のような文字が踊っている。

 つい100年ほど前まで、この島には太古の自然が広がっていた。
 そこには根も葉もなく、いきなり近代がはじまってゆく。<原初>の自然
 風景と、<近代>の草創が直接、隣り合っている。・・・
 しかし、その歴史が短いかといえば、決してそうではない。・・・
 「北海道の歴史が短い」のではなく、近代の歴史が浅いのだ。
 (これは北海道だけにかぎったことではない。日本のすべての地域に
  まったく同じことがいえる)。

村橋久成を通して、この若きサムライの数奇な運命に日本の近代の夢の
後先を辿る事は、古くから昆布ロードとして拓かれた利尻島出身の西村さんの、
もうひとつの自己検証のようにも思える。
近代の草創期に育まれた夢の挫折史は、西村さん自身の1990年代の夢の
検証とも思える。
さらに、昭和30年代美術批評家なかがわ・つかさの壮絶な北の10年と
村橋久成の夢の跡の10年も、どこか私には夢のあとさきとして重なって
くるのである。

*一原有徳追悼展ー11月26日(金)まで:am11時ーpm7時。
*岡部亮展withシミー書房「詩の本と彫刻」-11月30日(火)-12月12日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向。
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2010-11-25 15:17 | Comments(0)


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