テンポラリー通信

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2010年 08月 28日

ビッチェズ・ブリューーハルニレの羽(14)

マイルス・デイビスの傑作「ビッチェズ・ブリュー」を時々会場に流すと、
これがなかなかいい。
先日来たジャズドラム奏者の有山睦さんが、目を丸くして驚いていた。
家で聞くとこんな風には聞けないと言う。
西田卓司さんの会場を見て聞くからだよ、と応えた。
人間は五感である。一感だけで事物に接している訳ではない。
お刺身もお肉も、生でボンと出されても食欲に結びつかない。
目で食すと古来言われているように、目もまた参加するのだ。
音楽とて同じであるだろう。
目で感じたものが音をも解放する。
有山さんは眼から音を食していた事になる。
昨日谷口顕一郎さんの個展時、ジャズ外のライブを催す話を記したが、
実は今回の西田展もまた、ジャズライブにはぴったりの会場である。
目から音が入ってくる。
2階のコラージュのインスタレーシヨンは、さしずめアドリブの世界である。
そして1階の木製パネルの絵画世界は、凝縮されたイントロと終りのテーマ
のようでもある。
今日来たMさんが、この「失われたタブロー」の内の一点に注目していた。
宇宙飛行士が刷り込まれた不思議な図柄である。
あらためてよく見ていると、何かを連想する。
煮こごりである。情報の煮こごり。
素材を煮詰めて、生から味を抽出し皮・肉を煮詰める。
一晩置いて、冷え固まった汁・身。
ゼラチン状の薄い皮膜。
情報の煮こごり。
そう気付いて、吹き抜け回廊壁の膨大なコラージュを見ると、ここにも
煮こごりの前提が見て取れる。
壁面によってその程度の差こそあれ、それぞれがある収集性を保っている。
ただ木製パネル「失われたタブロー」の世界と決定的に違うのは、
煮る前の素材の組み合わせ状態という事である。
これは誰かを思い出すなあと思い、想い出したのは死んだ佐々木徹さん
である。
この作家は3年前5月ここで個展を用意しながらこの月亡くなられた方だが、
1990年にテンポラリースペースで初個展の時、次のように記していた。

 少し空気の抜けた捉えどころのないかたちのゴムまりのぼくに、
 時代や、文化や、歴史や、社会や、世間や、近所や、日常というさまざまは、
 力を加え続けゴムを震わせる。
 ぼくは、それを内側からきちんと確かめたいと思うのだ。
 個人的なものを、ぼくじしんのためにつくることだ、と強く思う。
                   (垂直的に深く「入って」行くために)

西田卓司の感性世界もまた、この佐々木徹のような<ゴムまりのぼく>
の感性がある。
彼のコラージュ群は正しく、佐々木徹のいう<さまざま>の外的力の
集散群でもあるだろう。
<それを内側からきちんと確かめ>る作業こそが、西田の場合の
煮こごり表現と思えるのだ。
そして佐々木徹はさらに言う。
<個人的なものを、ぼくじしんのためにつくることだ>と。
グループ展参加の多かった人である。
その佐々木徹が最後に熱く個展を願い、それが叶わなかった事を
思う時、私はいつもこの個展の文章を思い出すのだ。
<個>として、<ぼくじしんのためにつくること>が、
さまざまな外的情報からの内側からの確認、そして<垂直的に深く「入って」
行く>事である、ともう死の17年前に彼は記していたのである。
今西田卓司に求められるものは、こうした佐々木徹の実行であると私は思う。

 垂直的に深く「入って」行く

その垂直軸を何処に求めるか、
その応えこそが、西田の大学の先輩でもある佐々木徹への敬意と表現の
継承でもあるだろう。

*西田卓司展「ワーキンギフロー」-8月24日(火)-9月12日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
への
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by kakiten | 2010-08-28 15:54 | Comments(1)
Commented by コトリ at 2010-08-28 16:10 x
音いいなあ、と思いました 脳内スペクトルです♪


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