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テンポラリー通信

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2010年 06月 30日

汗と泥のボールー木霊(こだま)する(25)

0対0で最後はPK戦だった。
昨夜のワールドカップ、日本対パラグアイ戦である。
最後は送り手と受け手ふたりだけの究極の構造となる。
純粋抽象となったボールが、美しい孤を描く。
ボール自体はただの球であるのだが、このボールが飛ぶ状況総体に
人は心を踊らす。
勿論これはスポーツだから、そこには勝ち負けの結果がその球の行方に
待ち受けている。
勝負という劇によって、球はただの球ではない。
球はこの劇を支える人間の情念によって、ただの球ではなく
純粋抽象そのものともなるのだ。
物流の経済価値に置き換えれば、この球は何でも鑑定団的にいえば、
高額な貨幣価値の物にもなるだろう。
その経済価値を吊り上げる要因は、この劇的な人間のスポーツドラマ状況が
付加価値となる。
球自体がいかに職人技の技術を凝らした優れた物であっても、球自体は
あくまで球でしかない。
問題は球自体が美化され、いわば球至上主義化した場合、肝心の送り手と
受け手のドラマの土壌を喪失する事である。
ただの一個の球が俗的には高値を呼んだり、ただの一個の球が美至上主義
でそのもの自体を美化したりする高踏的工藝と化する場合もある。
本質はこの球が純粋抽象と化して、送り手と受け手の磁場、その現場そのもの
を凝縮する結晶化にある。
人間の一番純粋な行為、自己と他者の間を繋ぐ象徴が
この一個の球に凝縮された事である。
この時この一個の球とは、非常に芸術作品の在り様に似ている。
しかし球それ自体を持ち上げ固定化する事は、ある種の芸術至上主義という
陥穽に陥る事でもある。
そこにあの厄介な美という概念が纏いつく。
問題は芸術・美術作品の産まれる現場が、スポーツのように単純化された
現場の様相を保ってはいないという事だ。
生きる日常という現場はもっともっと多様で多種な状況の中に在る。
しかし究極のところは、送り手と受け手の織り成す同時代というグランド
での出来事であるのだ。
その同時代のグランドを忘却して、球という純粋抽象もまた存在しない
のである
美術家・芸術家は球の工藝職人ではない。
工藝を下に見るという事では勿論なく、そのボールのドラマを生きるのが
同時代と呼ぶに相応しい芸術と言いたいだけである。
昨夜のワールドカップを見て、球の工藝的美しさに感動した訳ではなく、
その球の行方に受け手と送り手の間に広がる世界、その磁場の象徴に
球が存在した事を言いたいのだ。
あのボールはきっと選手たちの汗と泥にまみれていたはずだからである。
球はガラスケースに囲繞されピカピカに存在した訳ではない。
一個の球をある特権的存在にしたのは、無名の多くの送り手と受け手の
息を飲むような同時の呼吸の磁場の存在が、汗と泥だらけの球をして
球を囲繞し輝かせたからだ。


*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-7月4日(日)まで。
 am11時ーpm7時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2010-06-30 13:34 | Comments(0)


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