「一生のお願い」という一文を、文月悠光さんが過日道新の夕刊に寄稿していた。
友人の女の子に”一生のお願い”と頼まれて”いいよ”と頷いてしまう自分を
振り返り、彼女は呟く。(あの子のように、私も”一生のお願い”ができたら
いいのに)。
自ら”一生のお願い”を発すること。それは本当に生涯にたった一度あるべき
で、「いつ願うか」に固執してしまうと、私は結局それを言い出せなかった。
”一生のお願い”を多発する現在というのは、ただ単に女の子の問題だけ
ではない気がする。
<一生>どころか、<多生>のバーチアルな現実がゴロゴロしているから。
<一生>という言葉に触発されて、<一生懸命>という言葉も思い出した。
普通は一生と書くけれど、時に一所懸命とも発音する気がする。
この一所も今は多所の感があり、その分バーチアルな現実が
先行している気がする。
”一生”とか”一所”の<一>が多岐化し多発的にあるかの如き
バーチアルな薄く軽いリアリテイーこそ自問し、疑うべきなのだ。
先日バッハ作曲の演奏を何曲かある人に聞かせたら、
こんなにも多くのバッハ演奏があるのかと、感心された。
それを聞いてふっと思った。
生涯宮廷音楽師として生きたバッハは、言ってしまえば
一所を一生、生きた人である。
現在のような世界のグローバルな広がりの中を生きた訳ではない。
にもかかわらず、この多種多様な演奏者の広がりは何なのだろう。
それは作品の保つ力の広がりである。
時代を超え、民族を超え、類として作品は個に開く。
バッハが生きた環境に現在のような多所も多生もなく、
ひとりの人間として、一生懸命と一所懸命を生きたのだ。
その一生懸命と一所懸命の<一>が、本質的広がりを保つ。
この<一>の垂直軸を現在という時代は、拡散・忘却・消去していないのか。
文月さんが多発する友人の”一生のお願い”に対し、<それは本当に生涯に
たった一度あるべきで、「いつ願うか」に固執してしまうと、私は結局それを言
い出せなかった。>と記している事に、なにか救いのようなものを感じていた。
<一生・一所>に命を懸ける真摯な垂直軸を怠り、<多生・多所>があたかも
全能で可能であるかの如く、国際化やグローバル化が横行する現在を、
この18歳の少女の文章は、見事に自らの身近な日常環境の中でその虚偽・
幻想を見切っている。
一所に一生の命懸けて生き抜こうとしない、バーチアルリアリテイーに
呑み込まれた現実の大人たちの文化意識と比して、である。
*「触れるー空・地・指」3人展ー秋元さなえ・太田理美・森本めぐみー
3月23日(火)-4月4日(日)am11時ーpm7時:月曜定休。
*藤谷康晴展「ANALOG FLIGHT SAPPORO→」
4月13日(火)-25日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503